胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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『en-taxi 2007夏号』
6月の末に出た『en-taxi 2007夏号』(太田出版)、たぶんまだ本屋にあると思います。

毎号やってる「角川句会手帖」、角川春樹さんが出所したのをきっかけに始った、誌上句会ですが、今回のゲストは、菊池成孔さん。
面白い句がありましたよ。

 空爆のニュースに流してみろヴォサノヴァ  菊池成孔
 君の尻ソーテルヌこぼれぬように      〃
 蝸牛脚の切り傷道の終わり         〃
 ゆっくりとゼラニウムが咲くような演奏   〃
 胃袋は実在してをりこどもの日       寸

三鬼をねたにした特集「2007夏・神戸バビロン幻影」。福田和也さんほかご一行が神戸を徘徊しつつ、業俳としての三鬼の生活をスケッチする「神の糞」という小文。
ご一行の顔つき、索漠とした取材写真、食いものの豪勢さ、と見どころ。

あと、佐藤優が紹介する、若き日のアドルノ(「アウシュヴィッツの後で、叙事詩を作ることは野蛮である」)と、指導教授である神学者ティリッヒのエピソード。

「晦渋で難解な文体で書かれたその論文を読んだとき、ティリッヒはその著者(アドルノ)にむかって「私には一言もわからないが、この論文はすばらしい」と言ったという。(…)アドルノが緊急の知らせで、彼の午睡を中断させた折にも、彼はこれと似たことを言った。「ところで、一体何が起こった」とティリッヒは身を起こし、青年を見据えながらいった。アドルノは興奮して、せきこみながら「私はちょうどユーモアの意味を発見しました。ユーモアというのは再度見た希望です」といった。ティリッヒの答えは、当然ながら「君の言っていることは一言もわからない」というものであった」


今号は俳句的にお得でした。
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ウォーミングアップとして
ひさびさの更新です。

ウォーミングアップとして、しょぼい突っこみをひとつ。

文春新書『俳句鑑賞450番勝負』中村裕著

p181〈蝿飛んでくるや箪笥の角よけて〉の項
「この作家(京極杞陽)は、日常何気なく見過ごしていることに、俳句的まなざしをむける名手といっていい。
「食卓の鉄砲百合は素っぽをむく」「木葉髪あはれゲーリークーパーも」「サングラスかけて俳人とぼとぼと」等々」





あの、「鉄砲百合」の句、って加倉井秋をなんですけど!!!!涙

中村っていう人、挙げてる杞陽の句はぜんぜん「日常」じゃないし、秋をの師匠の風生のことも「現代俳句のもっとも保守的な部分を体現した」(p21)とか書いてるし(そうですかねえ)、なんか、単にってかんじ。
澤7月号「特集・二十代三十代の俳人」
今週の『週刊俳句』の後記に、『俳句研究』の休刊に思うことを、すこし書きました。
「いまの総合誌という形ではなくなったとしても、俳句の現在を可視化するなんらかの装置にあって欲しい」とか、なんとか。

ちょうど、その後記を書いていた日に、届いたのが『澤』の七周年記念号「特集・二十代三十代の俳人」。もう毎年の名物になりつつある、分厚い特別編集版です。
それは、まさしく「俳句の現在を可視化する」ものでした。

後記を書いていたときに頭にあったのは、それこそ「俳句2.0」的な、現場報告の集合体のようなものだったので、結社からこういう発信があることは、おどろきでした。

結社が、状況全体を引き受ける意志をもっている。それはユニークなことでしょうが、希望でもあります。

若手作家13人(今泉康弘・山根真矢・高山れおな・杉浦圭祐・牛田修嗣・田中亜美・立村霜衣・大高翔・冨田拓也・村上鞆彦・高柳克弘・神野紗希)の自選50句。うち10人から寄せられた文章。
『澤』の、同年代の作家9人(押野裕・森野こと・榮猿丸・野崎海芋・山口珠央・相子智恵・森下秋露・池田瑠那・三宅麻子)の自選20句。うち5人から寄せられた文章。

『澤』の相子智恵さんの文章から引きましょう。

そして、現代はと言えば、大きな存在の俳人は次々と逝去し、読者の不在が嘆かれ、結社という制度の魅力が薄まり、文化的なコンセンサスや思想をもたず、季語と自然が失われているという時代だ。こんなにも大きな壁の崩壊は、抵抗の手に負えない。だったら一旦、それを受容するしかないではないか。(…)そこで個人が小さなサバイバルとしての創造を、自分の好きな俳句を、ただ続けるのみである。


澤俳句会 sawamail@sawahaiku.com

メールで申し込めば、振替用紙が入ってくる。1200円ですけど、原価は、その4倍くらいいっているらしい。(※未確認情報)
繰り返しになりますが、ここには、俳句の現在を見渡そうという意志がある。しかも、今、不見転で申し込まないと、けっして手に入らないです。

買って損無し。
俳句界5月号 小澤實特別作品50句「巨人」
「俳句界」の先々月号に載った小澤實さんの50句。

  セイタカアワダチサウ秋草に入るや否や  

一句目。カタカナ表記される植物名、つまり俳句的情緒外の「名」なんですけど、「サウ」と旧かな表記になるところが、脳がカユイ。

  自動車教習所の踏切や秋の暮

二句目です。自動車教習所の踏切ですよ。鉄道抜き、自然抜き=情緒抜きの異界とも言える空間に「秋の暮」=俳句的情緒をしたたらせてみる。

  きんぴらの胡麻粒ふまへ精霊よ

四句目。立たせましたねえ、また、立ちにくそうなところに。この精霊は、ひょっとしたら精霊(ジン)というやつかもしれません。

  防弾チョッキ下にネクタイ巡査秋

十九句目。同じ作者の「酒飲んで椅子からころげ落ちて秋」の「秋」と比べてみると、椅子から落ちた酔客の心情と秋は、響きあっていたわけですが、巡査と秋は、ぷつんと切れて、でも同じ空間に「在る」。これが「寒」だったら、全体が包まれちゃうんですけど。巡査は秋と関わりなく、話者も、へんなことが気になっていて秋を忘れている。かたっぽの腕がながーいやじろべえみたいな、十五音と二音の拮抗。

  人形の正面はるか見る寒さ

二十一句目。「正面「はるか」「見る」と、言葉をつないだかたちが、前にすーっとのびた視線と平仄があっていて、寒い。

  鰭酒の炎淡しやほとんど無し

二十三句目。基本かっこいい写生なんですけど、「ほとんど無し」と口語まじりの言いつづめが、酔ってない。クールです。

  ピンクのうさぎ腹の鋼の箱冷ゆる
  立ち上がり巨人去りゆく枯野かな
  春の暮カニクヒザルもイソガニも

三十七句目。
四十四句目。
五十句目。

心なしか、「俳句」や「俳句研究」の作品よりも、あばれんぼうぶりが、際だっていたような気がします。

漫画家であり、漫画評論の書き手でもあるいしかわじゅんの創見に、本質的に新しい作品を生むことが二番手誌の役割だ、という指摘があります。「漫画アクション」から「花の応援団」が、「漫画サンデー」から「まんだら屋の良太」が、生まれたように。「俳句界」には、栄えあるB級雑誌をめざしてほしいな、と。
新人賞のシーズン
5月31日、角川俳句賞応募〆切。
6月30日、俳句研究賞応募〆切。

角川のほうは、web上に応募規定が発表されていて、雑誌等の同規定にない一文が、加わっている。

●50句中に既発表の作品があれば無効となります。
(既発表作品には新聞、雑誌、結社誌、同人誌、句会報のほか、ホームページ、ブログ等に掲載された作品も含みます。)

( )内がつけ加えられた一文。これ、たしか、去年は、なかったです。
募集は「未発表50句」。インターネットのひろがりとともに、「未発表」「発表」の定義が、あらためて問題になっているようで、webでの公開も「発表」に含めますのだ、という気持ちは伝わってくるのですが、じゃあその「等」とは、どこまでか、メーリングリストは、BBSは、と話はびみょーになっていく。

もうひとつ。
昔、編集部に問い合わせた人がいて、「厳密に言えば、句会で人目にふれた句も望ましくない」と返答されたと、どこかで(たしかどこかの掲示板で)読みました。真偽のほどは、確かめられませんが、もし、ほんとなら、それも、えーーー?って思うでしょ。だって、黙ってればOKというようなゾーンがあるというのは、モラル的に残念なルールなわけですから。

これ「不特定の読者の閲覧が可能なかたちで、公表されたもの」を発表と見なす、と決めればいい、と思うんですけどね。

この基準で行くと。
句会に出すのはセーフ。句会報も、コピーを綴じたような、メンバーにのみ配布されるものならセーフ。同人誌は、どんなに部数が少なくても、メンバーのみでも、アウトです。(「常識として、句会で出された句を、本人の承諾無しで引用してはいけない」=公表ではない、というあたりで線を引いています。句が、公になるというのは、無断で引用していい状態におく、ということではないかと)

「先生」に見せて選を受けるのも、セーフ(やや、モラル的に残念ですが)。
仲間同士で見せあうのも、セーフ。

ホームページ、ブログ、BBSは(じっさいには特定のメンバーにしか、閲覧されないものも多いと思いますが)基本アウト。微妙なのは、BBS上で行なわれる句会の句ですが、不特定多数に閲覧可能という意味で、アウトとも言えるし、作者本人に公表という意識がなければ、ぎりぎりセーフにしてもいいような気も……。閲覧キーの必要な、クローズドな場所なら、問題なくセーフ。
ミクシは「友人まで公開」「コミュニティメンバーのみに公開」のページならセーフでしょうね。

とはいえ、最終的には、運営側の判断が「絶対」なので、↑真に受けないでください。

あと、今回の規定がなされる以前の応募作について、ルール違反を問う意図はありません。
だって、規定があいまいだったんだもの。

では、みなさま、ご健吟を。

「週刊俳句」もよろしく。
俳句に似たもの
Kurt Schwitters 『5 ORE』(1936)
430_3.jpg

この、林檎と葉っぱが「季語」。
界わいの話題から
田島さんちの、連続更新が、たいへん面白い。

田島さんの用語の「不可能性」については、いくつかのレベルがあると思うのですが、

1.言葉と対象(あるいは内容)の関係についての「不可能性」

「なぜ、俳句に「絶対的にわからない」ものが内在してしまうか、というと、「言葉」というものが、常に「言い過ぎてしまう」からなのである。」(2007/3/7)

「「不可能性」に対して「価値」がある、と合意したものだけが、一方で、その作者として表出し、もう一方で読者として表出する。」(2007/3/9)

田島さんの言語に対する不満(?)が、「言い足りない」のではなく、「言い過ぎてしまう」ことにあるというのが、おもしろいです。それは、たしかに日常言語には起っていない事態かも。(指示対象と言語の不一致は、当り前かつ解決不可能なので、問題になりようがない)

一方で、田島さんは、日常のことばが、意味の限定という機能をもつゆえに、多くの俳句は無意識に意味を価値としてしまう、というようなことを書かれていて。

ひょっとして、言い過ぎるとは、意味を限定することと重なってくるんでしょうか。
意味を限定することが、問題なのだとしたら、限定される前のものとは何だろう、と。

言葉からこぼれ落ちて、はじめて、そんなものがあったと気づくような、言葉の「外」の経験のようなものが、想定されているのかもしれません。

2.価値としての「不可能性」

「「俳句」の価値は、その「ことば」の意味ではなく、俳句そのものが内在する「不可能性」にある、ということなのです。」(2007/3/29)

「俳句における「絶対的にわからないもの」は、「価値」があるのか、ないのかすら定かでなく、けれども「価値がある」ということを「絶対的に受け入れた者」だけが、それに接近することができるような「何か」である。」(2007/3/7)

ここでは、あえて、秘教的な条件付けがなされているのだろうと思いますが、ふつうに分ろうとすると、「意味ではなく」ということが、ヒントになりそうです。
ことばには「意味ではない何か」というものが、あるはずなんだという。

ここには読者と作者の「合意」が、不可能を可能にする、つまり意味ではない何かを可能にするから、俳句は価値を持ちうるんだという主張があると思うんだけど。

田島さんは、一方で、それを「可能」なことにしてしまうことには、あまり意味がないのだ的なことを書かれている(なぜなら「再現可能」な「不可能性」は、もはや「不可能性」ではないからである。)。

となると、これは、毎回、未生の価値に賭ける、という心構え論なのかとも思われ。

田島さんの一連の論考から、かってに、自分に引きつけてテーマを取りだすと、

・「言い過ぎない」貧しい言葉の可能性。
・「書いていない」ことが書いてある、という同意。

というあたりが、気になります。田島さんの考えと、ぜんぜんかすってない可能性もありますが。

(ここで、俳句の不可能性の価値が、顕現している作例がほしい気がするんですが、そういうのって、ちょっと違うんでしょうか)






あ! ちょっと分ったかも。

田島さんには、日常言語の限界を超えたいというテーマが先にあって、その限界の先にあるものを、ぜんぶ「不可能性」と呼んでいるのでは、ないでしょうか。

いや、日常言語の限界というより「ことば」一般の限界といったほうが、いいのかな。詩語と日常語って、区別つかないですもんね。(タダゴティストとしては、俳句と日常の言語活動の区別はつくけど、そこで使われているのは同じ言葉だという気がしている)

3/29日付の記事のラスト近く「「この句には、意味という価値はないんだよ」という「意味の意味」をメッセージとして付加する、いわゆるメタメッセージ付きの句」が現われた、というあたり。

「お、こっちの守備範囲に話が来るのかな」と、たいへん楽しみにしています。
刮目して待て。
界わいの話題から
天気さんの、こちらの記事。因数分解のように、句の中味を、はらはら解いて消していって、「何も残らず、ぜんぶ消えてなくなった、この状態、作者である私にとっては、それこそが本懐だったりする」

うん、それは、ほんとに本懐ですねえ。

たしか、以前、虚子のただごと系の俳句についてだったか、
「こんなことを句にしちゃってるオレ、というアピールはついて回る」
というようなことを言うか書くか、していた人がいて。

その、(わざとなんでしょうけど)いじわるな物言いを、ただごとは越えうるのか、と考えてました。それは、もう「ああ、そのオレが消え損なってたら、書き損ないです、失礼しましたね」と、受け流せばいいような気がしてきました。

あらら
豆の木11号
上田原稿「ただごとについて」、あららやっちゃってます。子規の句「柿食えば」じゃなくて、
「柿くへば」ですよね。汗顔の至り。

豆の木11号より
  高層という滝の只中にいる  月野ぽぽな
  コスモスは咲いてゐないと兵士のやう 中村安伸
  おじさんの空気を抜いて桜餅 三宅やよい
  腕のばし花の写真を撮りにけり 遠藤治

俳句研究4月号
  いくつもの舟がこはれて春をはる 今井杏太郎
  人を待つ冬の夕日の駐車場    大井雅人

高柳克弘「凛然たる群像」で、田中裕明の「渚にて金沢のこと菊のこと」が取り上げられています。
「渚」に秋の季節感と空間の拡がりを、「金沢」「菊」から、色彩と伝統的美的価値をひきだして、さらに「いまここ」をあえて避け、いろいろ思い出しちゃったりするのが渚よねえ、という読み筋で(高柳さんはそういう書き方はしてないですが)たっぷり。

自分は、田中裕明は、俳句の型にフェティッシュな愛着のあった人なんじゃないかという気がしていて。掲句には、素十の「たんぽぽのサラダの話野の話」が響いているのではないか、と思いました。

あと「渚にて」と言えば、N・シュートの、最終戦争後の世界の静かな終末を書いたSFなんですけど、田中さん、読んでたかな。



 
追記:小説「渚にて」のタイトルは、T・S・エリオットの詩(「かくて世の終り来たりぬ」というリフレインのある)から、とっているらしいです。でも、そっちは流通してる訳だと「渚に集う」なんですよね。
ただごとについて
方法としての「ただごと」は、失敗すれすれであることを前提として選択される。

「毎月『鷹』に発表する句数はこれまで八句と決めていたけれど、多作を実行しはじめると、これが一挙に三百句以上になる。(略)玉石混淆というけれど、石ばかり多くなって玉はきわめて少ない、ひょっとして玉は一つもなかったということだってあり得る」「私は露出狂でも狂人でもない」「けれども、それを怖れてはいけない。どんな悪評にも堪えて恥をかけ」「そしてたった一句でいいからずば抜けた作を成せ」(藤田湘子「俳句以前のこと」)

藤田湘子は、一日十句を始めるに際しこれだけびびっていた、というか、びびって見せ、
それからようやく「蠅叩此処になければ何処にもなし」のような句を書くことができた。

一方で「あさまらのめでたき春となりにけり」などの句は、本人の心配通り、じゅうぶん「露出狂」だと思うのだけれど、それはともかく、湘子の「ただごと」俳句は、意図された「非-美」であり、かえって作家の規範意識の強固さを思わせる。

湘子にとって、規範意識を眠らせて書くための方法が、一日十句であり、虚子であった。

ーーーーーという部分を使わなかった、「ただごとについて」という文章が、

今週末できてくるはずの「豆の木11号」に、掲載されます。

齋藤朝比古★俳句研究賞受賞50句+50句
小野裕三★向こう岸の男?齋藤朝比古小論
中村安伸★ねじれたスプーン 俳句の娯楽性と芸術性
上田信治★ただごとについて
小野裕三句集『メキシコ料理店』
齋藤朝比古★小野裕三『メキシコ料理店』 きわめて私的な鑑賞
遠藤 治★小野裕三『メキシコ料理店』を読む
三宅やよい句集『駱駝のあくび』
さいばら天気★二〇世紀の明るさ
吉田悦花★朱夏
俳句作品も、多数掲載(上田は40句出しました)。

読んでもいいよ、という方は、上田または「豆の木」あてにご連絡ください。
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