胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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アナグラム?
2005年を代表する句集から、一句。

   泉あり子にピカドンを説明す  池田澄子






この句には、泉ピン子がいます。

なんども雑誌等で目にしていた句ですが、今日、句集で読んで(増刷になったので、買えた)はじめて気がつきました。ひょっとして、これ、俳壇的にはもう常識ですか? 笑いました。自分はもう、泉ピン子を想起することなく、この句を読めそうにありません。

もちろん(と、あわてて付け加えますが)泉ピン子は、この句の価値をいささかも減ずるものではありません。アナグラムは、識閾下に訴える詩法なのだそうです。たとえばこの場合、作者は意識的にか無意識的にか、泉ピン子の代表作から句中に「鬼」という言葉を、呼び込んだのかもしれない。




…こわいかんがえになってしまいました。
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05/12/28
M-1グランプリ見た。

以前、ダウンタウンの浜田が自分たちの若いときの漫才のVTRを見て、松本の面白さは今と変らないが自分は無茶苦茶下手である「やっぱ、つっこみて、うまなんねやなー(やはり、つっこみは上手くなるのだな)」と感想を言っていた。

モチーフとしての「ぼけ」と、技術としての「つっこみ」。

ブラックマヨネーズのつっこみの人が(どう言ってやったら、こいつは分かるのだ…)という思い入れで、視線を泳がせるところが、かっこよかった。

あと笑い飯のWマリリンモンローは、よかったなあ。




…俳句の話につながらなかったけど、まあいいか。

禅っぽいものとしての俳句
この世に起こることには何の理由もない、と思わせる句。

   額縁をもとめしかへり火事にあふ  渡辺白泉

人が「今日、火事を見てね……」と話し始める時、その人は火事の話をしようとしている。では「今日、額縁を買ってね……火事を見た」と言う人は、いったい何を語ろうとしているのか。

   鯊を釣るうしろ原つぱ犬駆けり   富安風生

映像的なこの句。画面中央にしばらく釣り人が映っている。と、後ろを犬が通り過ぎる。カメラは、犬を見に行ってしまう。おわり。

   汽車が走る山火事           尾崎放哉
   それから牛に会つたばかりの雪になり  荻原井泉水

これは、おそらく文体の問題である。

切れば、取り合わせになる。その場合、二物は(作者が意図せずとも)審美的な関係に置かれるというのが、俳句の読みのルールである。対して、掲出句はいずれも、因果関係のない事柄を、切らずにつないで美や物語から身を離す。残るのは、この世のことは「ただ」起こるという、ざらりとした感触。それは、自由律かそれに近い文体がもたらすものだ。

こういう句は「禅」っぽいのかも、しれない。

   昼だけある茶屋で客がうたつてる  放哉
   雨の落椿のはだしで酒屋がくる   井泉水

おもしろい。大変おもしろい。しかし、こういうふうに世界を感受することは、人として大丈夫なのだろうか。
05/12/22
二三日、フィギュアスケートのことを言っている人が多い。

自分は今回は見ていないのだが、あれが目に入るといつも思うことがあって、それは「これ、ついダンスのような表現行為と思ってしまうけど『競技スポーツ』なんだよな」ということ。

フリーと言い芸術点と言うから、どんな自由な芸術を出すかと思うと、みんなだいたい同じことをしているのは、あれがぜんぶ審判の採点基準だけに向けてされることだからだ。いまさらですが。だから、みんな同じように小首をかしげて手をひらひらさせて、お尻を振る。あと笑う。(採点基準といえば、水泳の高飛び込みも面白いですね、いかに水しぶきを小さく飛び込むかが勝負だなんて、君らは風呂の栓か)

話はずれるが、写真家の杉本博司がむかしインタビューに答えて「ある程度、工芸的にレベルの高いところに行かないと、観念なんてそこに宿ってこない。神様が降りてきてくれないんです」と言っていた。そのときは感心して、俳句もそうかも!なんて思ったものだが、いまは、その表面磨くのって贋物作りに似てないか?と思う。

だから自分はフィギュアで言えば、手をひらひらさせるよりは、ジャンプの時のありえないポーズとか、フェンスに激突とか、そういうほうで勝負したい。鼻血も出たりして。

そういう人は、永遠にオリンピックに出られないだろうか。でも、鼻血、毎回出すとしたら、どうよ。
当て振りとしての俳句
要するに、こういう句。
わかりやすくするために多行形式で表記してみる。(改行は引用者)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
             竿  
            刈
           布
          若
         き
        長
       す
      出
     き
    抽
   り
鳴門よ

(鳴門より抽き出す長き若布刈竿 山口誓子)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二階                    
  から                    
    降り
      て 用  な き   石蕗日和  

(二階から降りて用なき石蕗日和 橋間石)   
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・






  郵便
く 〒局 のありにけり  

(滝近く郵便局のありにけり 平畑静塔)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

言葉の指示する内容と言葉の形が、よく似たしつらえになっている。それは、一行表記に戻しても変らない。いわば、歌詞を体全体で表現しつつ歌う「当て振り」のような。

句の形が、その句の内容をトレースしている句。
05/12/18
水原秋桜子が入門書で、自分は一句を得るのに最低1時間はかかる、と書いていた。作風からしていかにもだけど、それにしても1句最低1時間……。
それで、一日十句とかやってたら、だいぶ残業代をもらわなければいけないと思った。

自分も、俳句・文、ずーっと手元において直していたいほう。特に文。このブログも、過去のエントリを、しばしば足したりけずったりしている。

今日は「里」の東京句会。

http://6405.teacup.com/haisato/bbs
似たものさがしとしての俳句
取り合わせの句は、しばしば似たもの捜しに似る。

   乳牛に無花果熟るゝ日南かな    飯田蛇笏

「無花果」と「乳牛」の乳房は、似たものどうし。むちむち張りきって白い汁が出る物どうし、仲良く。熱く熟れている物どうし、仲良く。日南も。

   春暁や水ほとばしり瓦斯燃ゆる   中村汀女

「水」と「瓦斯」の火。ばーばー出てる物どうし、仲良く。一見正反対の二つは、その勢いと台所での位置においてパラレル。そして水火の結合と「春暁」が、これも似たものどうしで、全体が入れ子になっている。冷たく熱くて明るい物どうし、仲良く。

   紙の箱ドライアイスの煙出る    長谷川櫂

「紙の箱」と「ドライアイス」。白くて味のない物どうし、仲良く。「ドライアイス」という自然状態では存在しない物質の、しかもその「煙」。そんなものとペアにされて、白い「箱」も、物狂おしくなる。虚の世界の匂いのする物どうし、仲良く。

   蟇の子のつらなり孵る牡丹かな   下村槐太 

あまり似ていない「蟇の子」と「牡丹」。しかし連れ添った夫婦は顔が似てくるもの。こうしてペアにしてみると、「牡丹」の花弁は、粘液をまとった「蟇の子」ようにぷるぷるした物だった気がしてくるし、でかいオタマジャクシは「牡丹」のように豪奢な物だった気がしてくる。ぷるぷるして豪奢なものどうし、末永く仲良く。

取り合わせは、物に対する認識を、皮一枚めくるように働く。と、その下から、むちむち、ばーばー、ぷるぷると、オノマトペの横行する質感の世界が現れる。

メカニカルで、無思想で、幼児退行的で……アブナイ文芸。

   砂掘れば肉のごとくに濡れてをり   阿部青鞋
楽観主義
楽観主義とは、天気さんが三つ前のエントリにつけてくださったコメント中のフレーズ。
http://uedas.blog38.fc2.com/blog-entry-7.html#comment

自分が思うより先に言葉にしてもらった、分かってもらえた、嬉しかったというのと同時に、「君にその楽観は持ち続けられるのかい」という問いが、ぽーんと突きつけられた気がしました。

えーと、はい。
物を書いて自分と人を喜ばすというのは、そんなにオリジナルなことではないので。
なんとかなるでしょう。
部分が全体を、今日が昨日を更新していくのは、ふつうのことだし。
もし自分にその能力がなくて、それをするのが他の誰かであったとしても、考え方は変える必要ないので、大丈夫です。

「楽観主義」自分なりにパラフレーズすると、「馬鹿じゃできない利口じゃやらぬ」となります。(意訳ですらないな、もう)そのちょうどいい馬鹿さをキープすること。

20年前、いしいひさいちが、だれも顧みることのなかった4コマ漫画というジャンルを、一人で復活させてしまったことを思い起こし、自分を励ましています。

こう、大きく出てしまうと「鉱脈」とか、どうでもいいです、たしかに。
「私が掘れば、そこが脈なのよ!」(つかこうへい風)

ただ桂信子のいう「向こう側」から、「俳句」に向けてアプローチするっていうのは、どーよ? という直感があって、それこそマーケティングかもしれないけど、そのことは、まだ思ってます。

追記:桂信子の発言は「向こう側」ではなくて「あっち」でした。トラバ先の天気さんの記事に、ご指摘いただきました。
3項関係としての俳句
俳句は、昆虫と同じように3つの部分に分節しているので、内容もおよそ3つの要素からなる。「遠山に日の当りたる枯野かな」ならば、「遠山」と「日」と「枯野」。

しかし、人間は、多項関係を認識することが苦手である。というか、できない(私見です)。すべての多項関係は、1対1関係にくくりなおして認識される。ために、俳句は3つの要素が1:2または2:1となるように書かれることが多い。
ところが。
   
    裏富士や月夜の空を黄金虫  飯田龍太 

同じ龍太の「紺絣春月重く出でしかな」であれば3項は、{(紺絣):(春月・重)}と、くくり得る。対して、掲句。「裏富士」と「月」と「黄金虫」の3者は、どれが主でどれが従ということがない。上五の後ろに切れはある。しかし、その切れを飛び越えて、富士や月や虫が乱れ交わるように関係する。多項関係で巴構造。これは珍しい。

さらに言えば、じつは、「紺絣」と「重く」の間にも何かがあるような気がする。「月」のあたま越しに、もやもやとしたあやしい関係が。それが、この高名な句のムードの発生源なのではないか。また、虚子の句にも「日の当りたる」の連体形が、山のみならず「枯野」をも明るくしてしまうという仕掛けがある。

図式にくくりきれない運動をはらむ句。ひょっとして、どこかから複雑さを呼びこむということが、表現全般の急所なのかもしれない。

(参考・『展開する俳句』松浦敬親 北宋社)


追記:
「紺絣」の句は語順がポイントかもしれない。{(紺絣:春月):(重)}とも{((紺絣・春):(春・月)):(重)}とも読め、あきれるほどの重層性がある。
05/12/6
今日は、歳時記のお題を、メンバーに送る。(担当、持ち回り制)
今回は、植物と時候の二題。早めに句がそろうと、いいな。

「ハイクマ歳時記」とトップページの「5句」は、メンバーの句の陳列台みたいなものです。ここは俳句サイトにしては、自分たちの句の掲載が少ないんですが、まあ、ダーッと並べ立てても読まれないだろう、と思って。

そのかわり、「5句」は、ちょくちょく更新します。ころころ変る代表句(笑)。もう、同じ句見るの飽きたー、という頃合いに変えたい。

飽きた、というかたは、コメント↓ください。ぼくはもう飽きてます。

鉱脈について(つづき)
西原天気さんがパシッと切れた球を返して下さいました。
http://tenki00.exblog.jp/d2005-12-05

>上田:「文脈」は、新しい作品が加わることで、更新されなければならない。
>西原さん: なければならない、とは思わない。変われ!と告げて変わるものではないから。

たしかに、ならないってことは、ないです。
『新しい一句は、「文脈」が更新されることを、要求する』と、言い直しましょう。
でも、ぼくは、西原さんの「空ばかり見てブースカが芋畑」で、「文脈」が更新されました(笑)。そうとうに強力なテキストじゃないと更新されないというのは、世間の(あるいはジャーナリズムの)文脈で。あ、そっか。場所の「文脈」で話をはじめておいて、読者(あるいは、書くことに先だつ想像的他者)の「文脈」みたいなことを、考えてしまっていたか。

または、『新しい一句は「文脈」の一部となることを、当てにして書かれる』とか。
で、どんな「文脈」を当てにして書くか、それは選べるのか、となると、話は、マーケティングじみてくる、と。






ん、オチまでたどりつかなかった。
鉱脈について
西原天気さんのブログの、11/7の「鉱脈」という記事。
折にふれ、そこで語られたことについて考えている。
http://tenki00.exblog.jp/d2005-11-07
いつにも増して口ごもりがち、噛みがちになると思うのだけれど、以下とりとめもなく。

1.「鉱脈」という言葉をばらしていうと、新しい作品のうまれる可能性ということか。
2.いま中心に近い場所で書くことは、打率が悪い。
3.あるいは、掘っても掘っても、残るようなものができない。歩留まりが悪い。
4.かもしれない。
5.中心、、、とりあえず「文脈的蓄積の濃い場所」としておく。
6.蓄積が濃いあたりには、なにがないのか。あるいは、ありすぎるのか。
7.酸素?  
8.スペース?
9.ごみ?
0.ある「場所」で書く、ということは、その場所の「読み」の「文脈」で書くということだろう。
1.「文脈」は、新しい作品が加わることで、更新されなければならない。
2.余談・虚子の伝説的選句眼というのは、とにもかくにも新傾向の作品に「印可」を与えて、無節操に「文脈」を拡張していった、ということなんでしょ? 突然とんでもない破調の作品を認めて、自分も書いてみたり。何のために。虚子=俳句でありつづけるために。
3.「文脈」が更新されない場所で書く。
4.「このごみの山に、また一句ごみを入れてどうすんだってのはあります(笑)」恒信風創刊号('95 6)での小林恭二の発言。
5.                (この発言につけくわえることは、何もないな)
6.あとは、そこは、ここは、どういう「場所」なのか、だ。
7.肩甲さんはどこにいる。
自画撮りとしての俳句
発語する自分を、写し取ったような句。

   秋晴の運動会をしてゐるよ  富安風生

俳句は、しばしばスナップ写真に例えられるが、このスナップには、撮り手が写り込んでいる。「街の雨鶯餅がもう出たか」も、よく知られた作。 

   いろいろな泳ぎ方してプールにひとり  波多野爽波

自画像というには、あまりにも自意識が不足しているような。思ったことを思った順番に言葉にしていったかにみえる書きぶりが、生々しい。放下の感触。

   触られて何をして居る秋の海   永田耕衣
   車はカー馬鹿は馬鹿なり恋は春  長島肩甲

また、風生には「梅多しなかなか多し腹へりぬ」があり、爽波には「魚好き肉はそれほど四葩咲く」がある。はっきり言ってしまおう。この人たちは、馬鹿のふりをしていると思う。

大好きだ。

05/12/1
サイテイな句ができた。




   宿木や冬は耳毛の伸びやすし  信治





……。たいへん気に入ったので、上げておきます。
はめ絵としての俳句
感覚的要素を組み合わせて、絵をつくる句。

   春雷や暗き厨の桜鯛  水原秋桜子

すこしの暖かさの中に、すこしの冷たさが。すこしの暗さの中に、すこしの光が配される。ガクブチに入れて、『微差』と題をつけて売りたいような。見事な絵。

   冬いちご森のはるかに時計うつ  金尾梅の門   
   魚眠るふる雪のかげ背にかさね  〃

ほんとうに美しい。でも、すこし古くさい。なんというか、作品に先行して美的基準があって、そこに「はめ絵」をして作ったような。……言いすぎか? 言いすぎだろう。ぼくらはいつも、原因と結果を取り違える。

   弁論やてのひらに乗る鳥を飼ひ  摂津幸彦
   少年の窓やはらかき枇杷の花   〃

狙おうが狙うまいが、美はおおむね「まぐれ当たり」として、訪れる。
人間にできるのは、せっせと、はめ絵に励むこと。
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