胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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06/1/29
俳句2月号は、意外と読むとこあった。

特集の「本当に名句なのか?」で、虚子の「流れ行く大根の葉の早さかな」。まあ、みんな名句だわなと認めてるわけですが、ひとつ気がついたこと。

左見て「流れ行く」真ん中見て「大根の葉の」右見て「早さかな」。

首を振りながら読むと、それが目の前を通るときに「大根の葉」と思うカンジが、ありありです。
(そして、この句も横書きにたいへん似つかわしい)
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06/1/27
以前、CMプランナーの岡という人が、言っていたこと。

メッセージ(CMの場合は商品)は、信頼がないと伝わらない。
人はメディアの何を信頼するかというと、感情移入であり共感性である。
要するに、人は、いいヤツの言うことだったら、聞く。
そして、なにが人の感情移入を確保するかというと、ユーモアのセンスだったりする。
人は、笑いの感覚が共通する相手を、信用に足ると考えるものだ。(大意)



俳句にも、メッセージとして伝達されるものはある。たとえば美。

   無花果とコスモスと石とトタン塀  京極杞陽

こういうことを言う人が言うことは、とりあえず聞きます。
時間の俳句3「時間外」
時間を書いて、時間の外に出ている句。

   濯ぎものたまりて山に毛蟲満つ    田中裕明

里には洗うものがたまり、山には毛虫が増えている。「場所」が二つあって、両方で「時間」が進行している。この二つの「時間」の関係が、分かりにくい。

というか、書いてない(笑)。

「われわれの宇宙とはなんぞや~と問えば、時間と空間のれんぞくたいである~♪  by所ジョージ」われわれは現実世界を「一つの空間が一つの時間軸を移動していく連続体」として認識している。もう一つの宇宙とか、もう一つの時間とかは、SFである。

しかるに、掲句。二つの「時間」は、一つの時間軸上にはない。

「濯ぎもの」は眼前にある。「毛蟲」は山にいる、というか作者の幻想。「たまったなあ」という認識と、「満ちてるだろうなあ」という想像。この位相のずれがあるために、二つの事態は、一つの時空間にイメージすることが困難である。

というか、無理(笑)。

しかし、二句一章の二句を衝突させて読むことは、俳句読者にとってプロトコル(礼法)である。一般の読者には読めない。しかし俳句読みには、これが読めてしまうのだ。

認識上の「時間」と想像上の「時間」。微妙にずれた「時間」が、二つ、接合するように並べてある。いま思わず「並べてある」と書いた。「並べてある」って、どこに? どこか、「時間外」の場所、「時間」が二つ置けるような場所に。言葉でこねあげた、俳句上の天地に並べてある。

それはもう、SFである。


追記:
とりあえずこの難解な句を、時間の句として読んでみたが、それが本当に作者のモチーフだったかどうかは、ぜんぜん分からない。ただ、いつもは「毛蟲満つ」のようなものものしい語彙を使う作者ではないので、この句は、はじめから不気味な句として書かれた、と感じる。

   指先の赤くて地虫出でにけり    裕明  

「濯ぎもの」は、第一句集に、「指先の」は二十余年後の第五句集に、ある。
作者のモチーフというもんは、ほんと謎。 
06/1/24
ハイクマ歳時記用の句をつくる。

季語Aは時候、季語Bは食べ物。この季語Aが、たいへん実感がなく作りにくい。

そこで季語Aには「面白季語」のレッテルを貼る。「面白季語」とは、季語であること自体が冗談のような季語のこと。これまで「雀蛤になる」「亀鳴く」などの「ファンタジー系」と、「冷蔵庫」「夜食」などの「何故それが系」の二系統がありました。


   雀蛤となる餃子は水で焼く      信治

   
くわえて最近「農林水産系面白季語」ということも考えています。とりあえず「蒟蒻掘る」を、農事系面白季語の第1号として認定。

じつはこれまで、自分で実地に見たことのない季語は使わない、と決めていました。あと蒟蒻農家でもない作家が「蒟蒻掘る」と詠むことに不誠実さを感じていた。「畦塗り」とか「田を刈る」も、自分がしているように詠まれるとヘンなかんじが。

しかし「面白季語」の概念を導入して、それらに対しては無責任なアプローチをすることを自分に許したので、たいへんフリーなかんじ。もちろん今後、自分が蒟蒻を掘ることがあれば、ふつうの季語として詠ませていただきます(多分ない)。


   蒟蒻玉掘られてをりぬ口下手で    信治


みなさんも自分なりの「面白季語」を見つけてみて下さいね。
時間の俳句2「真ん中分けの二人」
真ん中で二つに割れているような句。

   竹馬を下りきて海苔巻をつまむ    波多野爽波
   かき氷食ひ桔梗の花を見る      田中裕明

目的語+名詞が、ほぼ同じウエイトで二つ配されている、この不安定さ。通常の二句一章の、七三分け的(または黄金比的)に安定した構図を裏切り、あえて真ん中分けを選択する師弟。なにを考えているのか。

真ん中分けは、一句を構成するAB二要素の、どちらにも中心的地位を与えない構文である。作者は読者に命じている。「AとB」どちらでもなく、「と」を見よ、と。

ねらいの一つは時間だろう。

爽波の句。見よと指示されているのは「竹馬」と「海苔巻」のあいだの空間と時間。動詞を三つ使って、空間(たぶん庭先と縁側のあいだ)に時間を二重写しにしている。キャンバスに時間を描きこもうとした、未来派の絵画のようだ。

裕明の句。「かき氷」から「桔梗」まで、移動する視線と心。かき氷を食べていた心が、ふと桔梗の花を見る。「ふと」という極小の時間が、それとは名指されず、二句一章の二句の間にはさまっている。

そして、AとBの間には、読みとれるものがもう一つ。

竹馬に夢中かと思うと海苔巻を食べに来る子供の、動物のような理由のなさ。(かき氷おいしい……桔梗きれいだな)という自分の、ギャルのような理由のなさ。中心のない構文が、美しい「無心」を掬いとっている。

どうして、こんなことが可能だったのだろう。

時間の俳句1「時間の幅としての17音」
一つの動作が、17音使って完結するような句。

   橙が壁へころがりゆきとまる     田中裕明

「橙が」の時点でおそらく橙は床に落ち、中七下五で床をころがり、「とまる」の「る」で壁にふれて止る。17音を読むための時間が、そのまま作品内の時間の経過となっている。

   づかづかと来て踊り子にささやける  高野素十
   鳥の巣に鳥が入つてゆくところ    波多野爽波

動作の主体が、フレームインして来て、何かして、終り。線的な言葉によって線的な動作が描かれるという機能美。余談だが、左から右への横書きがカンペキにふさわしい二句だ。

   座布団に薄の絮の来てとまる     富安風生

上五でまず眼前に「座布団」を置き、そこに「絮」が中七下五を使いゆっくりと降りてくる。描かれているのは、物と、物の運動。きわめて映画的であり、見えるという快感がある。

対して、爽波の句は見えない。「(ゆく)ところ」と冗語を入れ、情報量は意図して切りつめられている。そして、そのことでほとんど成功してしまっているのは、「鳥」から「運動」を取り出して見せるという、手品だ。17音の長さのフィルムに、運動だけが映っているという不気味さ。

時間の模型としての17音。




この記事は、神野紗希さんの裕明句についての、ブログに依拠して書かれました。

http://blog.drecom.jp/sternskarte/archive/39
ハイクマ句
   白菜の中に正気の街がある            ユースケ

白菜を切るといっしゅん、鮮烈なものが現れる。
そこに「狂気」があったら、それは当たり前。非日常としての「正気」が、日常のゆるさを告発する。ちょっと右翼っぽいけど、その気合いや、よし。

しかも「街」。主人公のいる場所を、白菜から現れたものが一気に包み返す。この逆転の構図。日常の隠れた一部分として「正気」があるのではなく、見えない「正気」の中に、ゆるい日常が浮かんでいるのだ、という認識。

しかも「ある」。白菜を切って、ゴロンと転がったら、もう「正気」はないわけで。切るいっしゅん前の幻視として言いとめたところが、かっこいい。

うん。なんというすばらしい鑑賞でしょう(笑)。
06/1/9
家業のほうが立て込んでいて、ままならぬ日々。

とはいえ、俳句は、すき間すき間で考えられるのがいいところ。
療養俳句があるなら、〆切俳句があってもいいわけです。

   温風の出口の下で待つてゐる    信治
   いらないと言はれてからの桜餅   〃

…とりあへずダメですね。
2という数詞
「2」は独特である。

   河骨の二もと咲くや雨の中     与謝蕪村
   草二本だけ生えている 時間    富澤赤黄男

「3」「4」や「5」あるいは「6」と違い、「2」は、数えなくても「あ、2だ」と分かる。おそらく「2」が分かることに特化した脳の部位があるだろう。
 
   雉子ゐたり一羽にあらず二羽ゐたり 渡辺白泉

「1」には象徴性が、「3」以上の数詞には「数えました」という報告がつきまとう。対するに「2」は物質のように具体的である。

   桐火鉢二つが桐の長箱に      小澤 實
   夏座敷テレビ二台を置けるなり   〃
   つややかな版木が二枚今朝の秋   中田 剛
   天秤に分銅二つ桃の花       〃
   うすぐろく二僧のはざま火吹竹   〃

「2」は、くせになるようだ。村上鬼城などは「春浅し壁にかけたる鍬二挺」「まひまひや深く澄みたる石二ツ」「紙鳶二つちらちら雪にあがりけり」「秋空や日落ちて高き山二つ」と作っている。しかも、あまり面白くない。

   これはいい茸だしかも二つある   鴇田智哉
   三つほど悪い茸が出てゐたる    〃 

そんな中、上の二句を並べて発表した鴇田智哉は、へんな人かもしれない。

06/1/1


   鯛焼が恵方を示す朝かな  信治




あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申しあげます。

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