俳句2月号は、意外と読むとこあった。
特集の「本当に名句なのか?」で、虚子の「流れ行く大根の葉の早さかな」。まあ、みんな名句だわなと認めてるわけですが、ひとつ気がついたこと。
左見て「流れ行く」真ん中見て「大根の葉の」右見て「早さかな」。
首を振りながら読むと、それが目の前を通るときに「大根の葉」と思うカンジが、ありありです。
(そして、この句も横書きにたいへん似つかわしい)
特集の「本当に名句なのか?」で、虚子の「流れ行く大根の葉の早さかな」。まあ、みんな名句だわなと認めてるわけですが、ひとつ気がついたこと。
左見て「流れ行く」真ん中見て「大根の葉の」右見て「早さかな」。
首を振りながら読むと、それが目の前を通るときに「大根の葉」と思うカンジが、ありありです。
(そして、この句も横書きにたいへん似つかわしい)
以前、CMプランナーの岡という人が、言っていたこと。
メッセージ(CMの場合は商品)は、信頼がないと伝わらない。
人はメディアの何を信頼するかというと、感情移入であり共感性である。
要するに、人は、いいヤツの言うことだったら、聞く。
そして、なにが人の感情移入を確保するかというと、ユーモアのセンスだったりする。
人は、笑いの感覚が共通する相手を、信用に足ると考えるものだ。(大意)
俳句にも、メッセージとして伝達されるものはある。たとえば美。
無花果とコスモスと石とトタン塀 京極杞陽
こういうことを言う人が言うことは、とりあえず聞きます。
メッセージ(CMの場合は商品)は、信頼がないと伝わらない。
人はメディアの何を信頼するかというと、感情移入であり共感性である。
要するに、人は、いいヤツの言うことだったら、聞く。
そして、なにが人の感情移入を確保するかというと、ユーモアのセンスだったりする。
人は、笑いの感覚が共通する相手を、信用に足ると考えるものだ。(大意)
俳句にも、メッセージとして伝達されるものはある。たとえば美。
無花果とコスモスと石とトタン塀 京極杞陽
こういうことを言う人が言うことは、とりあえず聞きます。
時間を書いて、時間の外に出ている句。
濯ぎものたまりて山に毛蟲満つ 田中裕明
里には洗うものがたまり、山には毛虫が増えている。「場所」が二つあって、両方で「時間」が進行している。この二つの「時間」の関係が、分かりにくい。
というか、書いてない(笑)。
「われわれの宇宙とはなんぞや〜と問えば、時間と空間のれんぞくたいである〜♪ by所ジョージ」われわれは現実世界を「一つの空間が一つの時間軸を移動していく連続体」として認識している。もう一つの宇宙とか、もう一つの時間とかは、SFである。
しかるに、掲句。二つの「時間」は、一つの時間軸上にはない。
「濯ぎもの」は眼前にある。「毛蟲」は山にいる、というか作者の幻想。「たまったなあ」という認識と、「満ちてるだろうなあ」という想像。この位相のずれがあるために、二つの事態は、一つの時空間にイメージすることが困難である。
というか、無理(笑)。
しかし、二句一章の二句を衝突させて読むことは、俳句読者にとってプロトコル(礼法)である。一般の読者には読めない。しかし俳句読みには、これが読めてしまうのだ。
認識上の「時間」と想像上の「時間」。微妙にずれた「時間」が、二つ、接合するように並べてある。いま思わず「並べてある」と書いた。「並べてある」って、どこに? どこか、「時間外」の場所、「時間」が二つ置けるような場所に。言葉でこねあげた、俳句上の天地に並べてある。
それはもう、SFである。
追記:
とりあえずこの難解な句を、時間の句として読んでみたが、それが本当に作者のモチーフだったかどうかは、ぜんぜん分からない。ただ、いつもは「毛蟲満つ」のようなものものしい語彙を使う作者ではないので、この句は、はじめから不気味な句として書かれた、と感じる。
指先の赤くて地虫出でにけり 裕明
「濯ぎもの」は、第一句集に、「指先の」は二十余年後の第五句集に、ある。
作者のモチーフというもんは、ほんと謎。
濯ぎものたまりて山に毛蟲満つ 田中裕明
里には洗うものがたまり、山には毛虫が増えている。「場所」が二つあって、両方で「時間」が進行している。この二つの「時間」の関係が、分かりにくい。
というか、書いてない(笑)。
「われわれの宇宙とはなんぞや〜と問えば、時間と空間のれんぞくたいである〜♪ by所ジョージ」われわれは現実世界を「一つの空間が一つの時間軸を移動していく連続体」として認識している。もう一つの宇宙とか、もう一つの時間とかは、SFである。
しかるに、掲句。二つの「時間」は、一つの時間軸上にはない。
「濯ぎもの」は眼前にある。「毛蟲」は山にいる、というか作者の幻想。「たまったなあ」という認識と、「満ちてるだろうなあ」という想像。この位相のずれがあるために、二つの事態は、一つの時空間にイメージすることが困難である。
というか、無理(笑)。
しかし、二句一章の二句を衝突させて読むことは、俳句読者にとってプロトコル(礼法)である。一般の読者には読めない。しかし俳句読みには、これが読めてしまうのだ。
認識上の「時間」と想像上の「時間」。微妙にずれた「時間」が、二つ、接合するように並べてある。いま思わず「並べてある」と書いた。「並べてある」って、どこに? どこか、「時間外」の場所、「時間」が二つ置けるような場所に。言葉でこねあげた、俳句上の天地に並べてある。
それはもう、SFである。
追記:
とりあえずこの難解な句を、時間の句として読んでみたが、それが本当に作者のモチーフだったかどうかは、ぜんぜん分からない。ただ、いつもは「毛蟲満つ」のようなものものしい語彙を使う作者ではないので、この句は、はじめから不気味な句として書かれた、と感じる。
指先の赤くて地虫出でにけり 裕明
「濯ぎもの」は、第一句集に、「指先の」は二十余年後の第五句集に、ある。
作者のモチーフというもんは、ほんと謎。
ハイクマ歳時記用の句をつくる。
季語Aは時候、季語Bは食べ物。この季語Aが、たいへん実感がなく作りにくい。
そこで季語Aには「面白季語」のレッテルを貼る。「面白季語」とは、季語であること自体が冗談のような季語のこと。これまで「雀蛤になる」「亀鳴く」などの「ファンタジー系」と、「冷蔵庫」「夜食」などの「何故それが系」の二系統がありました。
雀蛤となる餃子は水で焼く 信治
くわえて最近「農林水産系面白季語」ということも考えています。とりあえず「蒟蒻掘る」を、農事系面白季語の第1号として認定。
じつはこれまで、自分で実地に見たことのない季語は使わない、と決めていました。あと蒟蒻農家でもない作家が「蒟蒻掘る」と詠むことに不誠実さを感じていた。「畦塗り」とか「田を刈る」も、自分がしているように詠まれるとヘンなかんじが。
しかし「面白季語」の概念を導入して、それらに対しては無責任なアプローチをすることを自分に許したので、たいへんフリーなかんじ。もちろん今後、自分が蒟蒻を掘ることがあれば、ふつうの季語として詠ませていただきます(多分ない)。
蒟蒻玉掘られてをりぬ口下手で 信治
みなさんも自分なりの「面白季語」を見つけてみて下さいね。
季語Aは時候、季語Bは食べ物。この季語Aが、たいへん実感がなく作りにくい。
そこで季語Aには「面白季語」のレッテルを貼る。「面白季語」とは、季語であること自体が冗談のような季語のこと。これまで「雀蛤になる」「亀鳴く」などの「ファンタジー系」と、「冷蔵庫」「夜食」などの「何故それが系」の二系統がありました。
雀蛤となる餃子は水で焼く 信治
くわえて最近「農林水産系面白季語」ということも考えています。とりあえず「蒟蒻掘る」を、農事系面白季語の第1号として認定。
じつはこれまで、自分で実地に見たことのない季語は使わない、と決めていました。あと蒟蒻農家でもない作家が「蒟蒻掘る」と詠むことに不誠実さを感じていた。「畦塗り」とか「田を刈る」も、自分がしているように詠まれるとヘンなかんじが。
しかし「面白季語」の概念を導入して、それらに対しては無責任なアプローチをすることを自分に許したので、たいへんフリーなかんじ。もちろん今後、自分が蒟蒻を掘ることがあれば、ふつうの季語として詠ませていただきます(多分ない)。
蒟蒻玉掘られてをりぬ口下手で 信治
みなさんも自分なりの「面白季語」を見つけてみて下さいね。
真ん中で二つに割れているような句。
竹馬を下りきて海苔巻をつまむ 波多野爽波
かき氷食ひ桔梗の花を見る 田中裕明
目的語+名詞が、ほぼ同じウエイトで二つ配されている、この不安定さ。通常の二句一章の、七三分け的(または黄金比的)に安定した構図を裏切り、あえて真ん中分けを選択する師弟。なにを考えているのか。
真ん中分けは、一句を構成するAB二要素の、どちらにも中心的地位を与えない構文である。作者は読者に命じている。「AとB」どちらでもなく、「と」を見よ、と。
ねらいの一つは時間だろう。
爽波の句。見よと指示されているのは「竹馬」と「海苔巻」のあいだの空間と時間。動詞を三つ使って、空間(たぶん庭先と縁側のあいだ)に時間を二重写しにしている。キャンバスに時間を描きこもうとした、未来派の絵画のようだ。
裕明の句。「かき氷」から「桔梗」まで、移動する視線と心。かき氷を食べていた心が、ふと桔梗の花を見る。「ふと」という極小の時間が、それとは名指されず、二句一章の二句の間にはさまっている。
そして、AとBの間には、読みとれるものがもう一つ。
竹馬に夢中かと思うと海苔巻を食べに来る子供の、動物のような理由のなさ。(かき氷おいしい……桔梗きれいだな)という自分の、ギャルのような理由のなさ。中心のない構文が、美しい「無心」を掬いとっている。
どうして、こんなことが可能だったのだろう。
竹馬を下りきて海苔巻をつまむ 波多野爽波
かき氷食ひ桔梗の花を見る 田中裕明
目的語+名詞が、ほぼ同じウエイトで二つ配されている、この不安定さ。通常の二句一章の、七三分け的(または黄金比的)に安定した構図を裏切り、あえて真ん中分けを選択する師弟。なにを考えているのか。
真ん中分けは、一句を構成するAB二要素の、どちらにも中心的地位を与えない構文である。作者は読者に命じている。「AとB」どちらでもなく、「と」を見よ、と。
ねらいの一つは時間だろう。
爽波の句。見よと指示されているのは「竹馬」と「海苔巻」のあいだの空間と時間。動詞を三つ使って、空間(たぶん庭先と縁側のあいだ)に時間を二重写しにしている。キャンバスに時間を描きこもうとした、未来派の絵画のようだ。
裕明の句。「かき氷」から「桔梗」まで、移動する視線と心。かき氷を食べていた心が、ふと桔梗の花を見る。「ふと」という極小の時間が、それとは名指されず、二句一章の二句の間にはさまっている。
そして、AとBの間には、読みとれるものがもう一つ。
竹馬に夢中かと思うと海苔巻を食べに来る子供の、動物のような理由のなさ。(かき氷おいしい……桔梗きれいだな)という自分の、ギャルのような理由のなさ。中心のない構文が、美しい「無心」を掬いとっている。
どうして、こんなことが可能だったのだろう。
一つの動作が、17音使って完結するような句。
橙が壁へころがりゆきとまる 田中裕明
「橙が」の時点でおそらく橙は床に落ち、中七下五で床をころがり、「とまる」の「る」で壁にふれて止る。17音を読むための時間が、そのまま作品内の時間の経過となっている。
づかづかと来て踊り子にささやける 高野素十
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波
動作の主体が、フレームインして来て、何かして、終り。線的な言葉によって線的な動作が描かれるという機能美。余談だが、左から右への横書きがカンペキにふさわしい二句だ。
座布団に薄の絮の来てとまる 富安風生
上五でまず眼前に「座布団」を置き、そこに「絮」が中七下五を使いゆっくりと降りてくる。描かれているのは、物と、物の運動。きわめて映画的であり、見えるという快感がある。
対して、爽波の句は見えない。「(ゆく)ところ」と冗語を入れ、情報量は意図して切りつめられている。そして、そのことでほとんど成功してしまっているのは、「鳥」から「運動」を取り出して見せるという、手品だ。17音の長さのフィルムに、運動だけが映っているという不気味さ。
時間の模型としての17音。
この記事は、神野紗希さんの裕明句についての、ブログに依拠して書かれました。
http://blog.drecom.jp/sternskarte/archive/39
橙が壁へころがりゆきとまる 田中裕明
「橙が」の時点でおそらく橙は床に落ち、中七下五で床をころがり、「とまる」の「る」で壁にふれて止る。17音を読むための時間が、そのまま作品内の時間の経過となっている。
づかづかと来て踊り子にささやける 高野素十
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波
動作の主体が、フレームインして来て、何かして、終り。線的な言葉によって線的な動作が描かれるという機能美。余談だが、左から右への横書きがカンペキにふさわしい二句だ。
座布団に薄の絮の来てとまる 富安風生
上五でまず眼前に「座布団」を置き、そこに「絮」が中七下五を使いゆっくりと降りてくる。描かれているのは、物と、物の運動。きわめて映画的であり、見えるという快感がある。
対して、爽波の句は見えない。「(ゆく)ところ」と冗語を入れ、情報量は意図して切りつめられている。そして、そのことでほとんど成功してしまっているのは、「鳥」から「運動」を取り出して見せるという、手品だ。17音の長さのフィルムに、運動だけが映っているという不気味さ。
時間の模型としての17音。
この記事は、神野紗希さんの裕明句についての、ブログに依拠して書かれました。
http://blog.drecom.jp/sternskarte/archive/39
白菜の中に正気の街がある ユースケ
白菜を切るといっしゅん、鮮烈なものが現れる。
そこに「狂気」があったら、それは当たり前。非日常としての「正気」が、日常のゆるさを告発する。ちょっと右翼っぽいけど、その気合いや、よし。
しかも「街」。主人公のいる場所を、白菜から現れたものが一気に包み返す。この逆転の構図。日常の隠れた一部分として「正気」があるのではなく、見えない「正気」の中に、ゆるい日常が浮かんでいるのだ、という認識。
しかも「ある」。白菜を切って、ゴロンと転がったら、もう「正気」はないわけで。切るいっしゅん前の幻視として言いとめたところが、かっこいい。
うん。なんというすばらしい鑑賞でしょう(笑)。
白菜を切るといっしゅん、鮮烈なものが現れる。
そこに「狂気」があったら、それは当たり前。非日常としての「正気」が、日常のゆるさを告発する。ちょっと右翼っぽいけど、その気合いや、よし。
しかも「街」。主人公のいる場所を、白菜から現れたものが一気に包み返す。この逆転の構図。日常の隠れた一部分として「正気」があるのではなく、見えない「正気」の中に、ゆるい日常が浮かんでいるのだ、という認識。
しかも「ある」。白菜を切って、ゴロンと転がったら、もう「正気」はないわけで。切るいっしゅん前の幻視として言いとめたところが、かっこいい。
うん。なんというすばらしい鑑賞でしょう(笑)。
家業のほうが立て込んでいて、ままならぬ日々。
とはいえ、俳句は、すき間すき間で考えられるのがいいところ。
療養俳句があるなら、〆切俳句があってもいいわけです。
温風の出口の下で待つてゐる 信治
いらないと言はれてからの桜餅 〃
…とりあへずダメですね。
とはいえ、俳句は、すき間すき間で考えられるのがいいところ。
療養俳句があるなら、〆切俳句があってもいいわけです。
温風の出口の下で待つてゐる 信治
いらないと言はれてからの桜餅 〃
…とりあへずダメですね。
「2」は独特である。
河骨の二もと咲くや雨の中 与謝蕪村
草二本だけ生えている 時間 富澤赤黄男
「3」「4」や「5」あるいは「6」と違い、「2」は、数えなくても「あ、2だ」と分かる。おそらく「2」が分かることに特化した脳の部位があるだろう。
雉子ゐたり一羽にあらず二羽ゐたり 渡辺白泉
「1」には象徴性が、「3」以上の数詞には「数えました」という報告がつきまとう。対するに「2」は物質のように具体的である。
桐火鉢二つが桐の長箱に 小澤 實
夏座敷テレビ二台を置けるなり 〃
つややかな版木が二枚今朝の秋 中田 剛
天秤に分銅二つ桃の花 〃
うすぐろく二僧のはざま火吹竹 〃
「2」は、くせになるようだ。村上鬼城などは「春浅し壁にかけたる鍬二挺」「まひまひや深く澄みたる石二ツ」「紙鳶二つちらちら雪にあがりけり」「秋空や日落ちて高き山二つ」と作っている。しかも、あまり面白くない。
これはいい茸だしかも二つある 鴇田智哉
三つほど悪い茸が出てゐたる 〃
そんな中、上の二句を並べて発表した鴇田智哉は、へんな人かもしれない。
河骨の二もと咲くや雨の中 与謝蕪村
草二本だけ生えている 時間 富澤赤黄男
「3」「4」や「5」あるいは「6」と違い、「2」は、数えなくても「あ、2だ」と分かる。おそらく「2」が分かることに特化した脳の部位があるだろう。
雉子ゐたり一羽にあらず二羽ゐたり 渡辺白泉
「1」には象徴性が、「3」以上の数詞には「数えました」という報告がつきまとう。対するに「2」は物質のように具体的である。
桐火鉢二つが桐の長箱に 小澤 實
夏座敷テレビ二台を置けるなり 〃
つややかな版木が二枚今朝の秋 中田 剛
天秤に分銅二つ桃の花 〃
うすぐろく二僧のはざま火吹竹 〃
「2」は、くせになるようだ。村上鬼城などは「春浅し壁にかけたる鍬二挺」「まひまひや深く澄みたる石二ツ」「紙鳶二つちらちら雪にあがりけり」「秋空や日落ちて高き山二つ」と作っている。しかも、あまり面白くない。
これはいい茸だしかも二つある 鴇田智哉
三つほど悪い茸が出てゐたる 〃
そんな中、上の二句を並べて発表した鴇田智哉は、へんな人かもしれない。
| ホーム |
