胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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「また見つかった」
歴史性を無視して勝手に「本意」を決めるシリーズ(自分本意……すいません、今のナシで)。

神野紗希さんのブログに、鷹のいい句(鳥の鷹です)がたくさん挙がっていたので、便乗させていただいて。
http://blog.drecom.jp/sternskarte/archive/92

「鷹」の本意は、「理想我」または「父」だろう。

   未だ逢わざるわが鷹の余命かな    池田澄子
   かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す    正木ゆう子
   目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹  寺山修司
   裏山の骨の一樹は鷹の座ぞ      角川春樹

ファザコンを自認する、この作者のこんな句も。

   鷹狩を終へたばかりの瞳する     櫂未知子
   妬心てふ理由なきもの青鷹      〃

ただ、あれです。句中の語を、何かの「喩え」「言い換え」としてしまうのは、殺風景なことなので、それぞれ「鷹」それ自体に戻して、ご鑑賞いただけると幸いです。(それで価値がなくなってしまうような、ヤワな句は、こちらにも紗希さんのブログにも、挙がっていませんが)

それにしても、紗希さんの方で挙がっている芭蕉の句は健康ですね。さすが近代以前。
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虚子ですなあ(改)
「鷹」の500号記念号の付録『愚昧論ノート/俳句以前のこと 藤田湘子』を、面白く読む。例の「一日十句」の決意にいたるこの俳論二編の、かなりの部分が、虚子について考えることに割かれている。

湘子は『愚昧論ノート』で、虚子のいわゆる「小諸時代」の作品について「夥しい駄句の群がたった一握りの佳句を支えている」と書いている。湘子が例に挙げて「俳句とよぶことを憚られる」とまで言う「駄句」を、悪趣味とは思いつつ、ちょっと孫引きします。
  
   雪晴の空に浅間の煙かな   虚子 
   夏の浜人出少なく淋しけれ  〃

んー、だめですか。だめですね。

   水仙の花生け会に規約なし  虚子

これはちょっと、おもしろくないですか? 句会だったら、ぼくはたぶん短冊が回ってきた時点で笑いが止らなくなって、いただいてしまいます。

   年の暮日を間違えて一日損  虚子

いま、総合誌って、こういう句がいっぱい載ってますよね。

現在の俳句のある部分が、虚子の「駄句」の影響下にあるとしたら(どうも、そんな気がする)、それは、虚子の「駄句」の存在意義を認めた、藤田湘子の影響もあるのかもしれません。寝た子を起こした、というか。もちろんそれは、湘子の本意とかけ離れたことなのでしょうが。

『俳句以前のこと』では、湘子が「数分の店頭での立読みで」忘れられなくなったという、「ホトトギス」昭和二十一年二月号の巻頭近く(第二席)の句について、書かれている。

   可笑しがりふとんが床にずり落ちさう 間 晃
   別れいやふとんに顔を埋めていや   〃

何日か前このブログで、爽波、杞陽だけが、甘やかされていたかのように書いてしまった後、ほんとうのところは、当時の雑詠欄に当ってみないと分かんないな、と気になっていたのです。これは、そうとう変な句の系譜がありそうですね。

いやいや、おもしろいわ、虚子。
俳壇(つづき)
「俳壇」について、一部でご好評を得たので、続けます。

1.「評判記」から「俳壇」なる仮想の空間が生まれた、という把握が可能なら、「俳壇」はジャーナリズムの作品であるといえる。
2.しかし「俳壇」とジャーナリズムの関係は、そこで転倒している。「評判」を決める主体が、見物衆orジャーナリズムから、「俳壇」自身へと移行しているのだ。
3.表現ジャンルが、新奇なものの価値をいち早く認める「玄人」の受け手を必要とする、ということはあると思う。(土屋賢二「猫とロボットとモーツァルト」に詳しい)
4.ジャーナリズム、またはコマーシャリズムの自律的商売活動を、「玄人の評価」と「○壇的評価」が補完するというあたりが、いちおう健全というか、いい線なんではないかと思うが、どうか。
5.ミシュランの星を、料理人が「自分たちで決める」と言いだせば、どういうことになるか。
6.かくて「俳壇」は「名望の分配装置」となる。
7.茶話会のお菓子を配るように、俳壇的地位が分配されている。
8.作家が、作家の評価を決めて何が悪いかって? いや、それに文句はないのだが。
9.なんかいろんなことが「空気」で決まってる気がして、気持ち悪いンである。
10.とりあえず、総合誌に書く作家の顔ぶれって、何とかなんないんですかね。
11,ま、「俳壇など無きがごとくに振る舞うが吉」という、以前出した結論に、変更ナシ、です。新人賞は、ジャーナリズムへの登録だから、あれ。


天気さんブログ/「俳壇」の機能?
http://tenki00.exblog.jp/d2006-03-24
田島さんブログ/俳壇について(1)(2と3もあります)
http://moon.ap.teacup.com/tajima/147.html
俳壇
芝不器男賞選考会当日、アヤカさんが、グレーのスーツに白ブラウスなんか着ている。
私「どうしたの、就職活動みたいなかっこして」
ア「今日が、私の就職活動ですから」
その認識の、正鵠を射てロコツであることに、友人として誇りを覚える。
たしかに、新人賞は「俳壇」への就職試験かもしれない。
ア「勝負パンツ、穿いてきました」
そこまで言わなくてもいい。

「俳壇」の定義については、以前、ハイクマ掲示板で応酬があったわけですが、その後、つらつら考えたこと。

1.「俳壇」は、作家とその周辺からなるギルドであろう。
2.「文壇」「俳壇」「論壇」「詩壇」etc。それら「壇」の機能とは?
3.明治における「文壇」とは要するに「評判記」ではなかったか、と、思いついて、ググってみたらーー

江戸時代のはじめ、日本でも版本刊行の興隆期において、早くも大きな一ジャンルをなしたのは「評判記」であった。遊女評判記から役者評判記へ、そして江戸中期には文芸、風俗その他、諸事万般の評判記へと広がってゆくのだが、それがいまも 存続する「文壇」「画壇」、また「芸能界」などといった、想像上の社会空間を産み出す基本アーカイヴとなったのであった。(武蔵大学 日本文化専攻「日本美術史研究1・2」授業計画より)

ーーすでに定説であった。

4.「壇」とは、つまるところ「評価の装置」である。
5.マンガには「壇」がない。新人への評価は、編集部が下す。既成作家への評価は、読者(あるいは市場)が下す。
6.いま「壇」があるジャンル=商品性という評価軸のないジャンル、なのではないか。
7.「俳壇」は「俳壇」自身による、自己評価によってドライブされている。
8.なんか「自己目的化」とか「相互監視」とか「教条化」とか「蛇の尻尾呑み」とか「定向進化」とか「よそとの交流のない村で血族結婚を繰り返し」とか、山ほど不健康なことが起こる契機がある、気がする。
9.しかし当面は、「俳壇」が、作品の「評価」と「流通」のインフラである。
10.「評価の装置」の健全性は、いかに担保されるか。
11.こわいおっちゃん? 
12.ていうのも、ださいんだよな。
芝不器男俳句新人賞
ハイクマの佐藤文香が、芝不器男俳句新人賞の対馬康子奨励賞を受賞しました。

齋藤愼爾奨励賞・受付番号050「訣別はふいにところてんが食べたい」
大石悦子奨励賞・受付番号081「律儀な窓だよ触れれば冷たくて」
城戸朱理奨励賞・受付番号001「無人駅どのTシャツも風であり」
坪内稔典奨励賞・受付番号120「のど飴ののどに冷たし一葉忌」
対馬康子奨励賞・受付番号104「ヨットより出てゆく水を夜といふ」

芝不器男俳句新人賞・受付番号005「うぐひすに裁かれたくもある日かな」

よい句ばかりですね。

詩人の城戸委員が、既存の俳句的価値観から見て手堅い05番を推したこと、大石委員が、八方破れの口語句81番と子供俳句(小学4年!)の61番を推したこと、対馬委員が、最後まで、104のほうが清新でかつ◎が多い、と正賞に佐藤を推してくれたこと、etc,etc。見所の多い、公開審査でした。委員が、別の委員の推す作品をくさすという場面が、ほとんどなかったのも、よかったです。

審査の席上での、坪内委員の「新しい句は、誉めればよくみえてくる。どんどん誉めよう」という主旨の発言が、二次会三次会を通じて、話題になりました。ネンテンさん、いいこと言うなー、と。

賞を逃した人や、予選を通過しなかった人の句が、審査員に読み上げられる場もあり、某君の句が読まれたとき、某委員が「なんで、落しちゃったかな」とつぶやくのを聞いてしまったりも、しました。

斎藤奨励賞のクドウさんや、候補を二人出して応援に駆けつけてた「澤」の人たちと、話せて、楽しかった。神野紗希さんと、受賞者に渡す花束を買いに行ったのも、自分的にグッジョブであった。

文香さん、おめでとう。みなさん、ありがとう。
06/3/17
ちょっと、思いのままに書きます。

虚子には「富貴権門」を好むふうがあった、という人がいます。

  可愛さう頬ざらざらで冷たさう   杞陽
  籐椅子に祖母とありつつつまらなく 爽波
  へつつひに冬至の柚子がのつてゐる 風生 

それぞれ、第一句集から。杞陽、爽波の句なんて、ホトトギスに投句を開始して、一、二年目の句だから、これ、やっぱり、すごく期待されてるというか、甘やかされてるというか。

富貴権門の反対のような境遇の人も、ホトトギスにはもちろんいますけど、こんな八方破れなことは、許されてなかった気がします。

  花ちるや耳ふつて馬のおとなしき  鬼城
  かすかにも顔明りあり五月闇    花蓑

いや、本当にダブルスタンダードがあったかどうかは知りません。花蓑さんにも「飴の玉いつもふくんで日南ぼこ」とかあるんで、一概には、言えませんが。

ただ、その、ひょっとしたら「甘やかし」であったかもしれない領域が、ひじょうに豊かな気がするわけです。爽波のいう「自由闊達の世界」は、ここから始っているんじゃあないか、とか。

だから、つまり、誰か甘やかしてくれないか、私を。(違う)
人名と季語
「人名句集 チャーリーさん」の「編集後記」に「作るうちに彼(作者西原天気さん・上田注)は、人名がしばしば季語と同様の働きをもつことに気づいた。」とある。

  元日や田谷力三とすれちがう    小沢信男
  春塵やこころの馬鹿のトルストイ  平井照敏
  藤の花会社の人に友田君      寺澤一雄
  アラカンの自生北限なる岬     西原天気

「田谷力三」…「浅草仲見世」との前書があり、人名は、実景(でありうる景)中の一要素であり、一句の中心である。

「トルストイ」…人名はシンボルとして、その含意が、句中の他の要素と響き合うように、置かれている。

「友田君」…人名は、たまたまそこにあった偶然、それ自体。

「アラカン」…人名が、コラージュの素材のように景を異化し、また自身、異化されてもいる。

逆に、これら人名のごとくに季語を使うとしたら、どーよウププ……というようなことを考えておる訳です。
人名と俳句
俳句における、人名は、胡乱である。


   花野から清川虹子また虹子   西原天気
   目の中に芒原あり森賀まり   田中裕明
   大辻司郎象の藝當見て笑ふ   西東三鬼


共通するのは、人名の、他の語からの浮き具合。または、異物感。

(仮説1)俳句で使われる名詞は、多くの場合、単数であれば「a」がつくような、一般概念としての「いわゆるひとつの○○」である。「the」がつく名詞すら登場することが少ないので、固有名中の固有名である人名の、異物感が際だつのではないか。


   風生と死の話して涼しさよ   高浜虚子
   聾青畝ひとり離れて花下に笑む 〃


(仮説2)同じ人名でも俳人や歌舞伎役者の名前は、それほど胡乱ではない。また、同じく固有名詞である地名の場合、俳枕的地名は安全だが、「南浦和」「岐阜羽島」のように句中で異物感を発する地名もある。

単純に、人名は「風流」ではないことが多い、ということではないか。


   夏死にて川端茅舎すがすがし    下村槐太
   柿の木の天までのぼれ津田清子   平畑静塔
   田山花袋の喜びさうな火桶なり   大牧広
   弾きて澄む顔は見えねど諏訪根自子    日野草城
   フリードリヒ・ニイチエのごとき雷雨かな 平井照敏


(仮説3)思うに、そもそもフルネーム(姓+名)というものが、胡乱なのではないだろうか。


   秋風や會津八一の眉間の皺     小澤實




西原天気さんよりご恵贈いただいた「人名句集 チャーリーさん」が、あまりにおもしろかったので。(続く、かも)
06/3/2
家業にあわただしく、あっという間の一週間。

  日曜は鶯をきいて和服で居る   加倉井秋を
  月曜は銀座で飲む日おぼろかな  草間時彦
  火曜日は手紙のつく日冬籠    高野素十
  倫理から倫理へ葛の水曜日    坪内稔典

  金曜日が好きで韮・鯖・浅蜊買ふ 正木ゆう子
  鮟鱇の土曜の町に吊られけり   成井 侃

木曜日の句を、作りたい。
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