胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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上五の体言止
ときどき「上五の体言止め」には注意せよ、ということを聞きます。切れがあいまいになるのでイカン、「上五が後半の動詞の主語」のように誤読されたり、逆に「作者が後半の動詞の主語」のように読めたりするのでイカン、ということらしいのですが。

「上五の体言止め」といえば波郷ですよね。

   プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 石田波郷

この句は、さいわい、後半に主格の助詞「は」があって助かったのですが、「夜もみどりなる夏来たり」だったら、たちまち、「夏にプラタナスが来る、と読める」と突っ込まれることでしょう。

   百日紅ごくごく水をのむばかり   波郷
   鰯雲ひろがりひろがり創痛む    〃

こう来ればもう、先生たちは鬼の首でも取ったかのごとく「百日紅が水を飲みますか」「手術の傷がひろがったら大変だ」とか言い出すわけです。しかし先生、あなたはそれを、波郷に言えますか? そんなこと言ったら、溲瓶で頭を割られますよ。

「波郷のような天才は別。古来『名人危うきに遊ぶ』といって……」と、先生は言うのかもしれない。でも、そうだろうか。狙ってやってるとしたら、人も木も水を飲むとか、雲も傷も広がるとか、ふざけすぎじゃないだろうか。波郷って、ただ、天真爛漫というか、無意識なだけでしょう(断言)。そんなふうだから「霜の墓」みたいな、突っ込まれやすい代表句を書いちゃったりするんですよ。

いや「語法がゆるい句は、ゆるいんだ」というのは分かります。しかし、ぜんぶの句が、同じしっかりさ加減を目指す必要はないのではないか。あの切れ字原理主義者の波郷が、上五の体言止めを好んだ意味を、どう考えるのか。

どうも、世の中間違っとるよ、という気がするわけです。
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感覚の交響(2)
聴覚とその他の感覚が、交響している句。

   かげろふの来てさわがしき障子かな 前田普羅

「かげろふ」は「障子」のどちらにいるのか分からないけれど、見えていない感じ。障子ごしの光線の明るさ。「かげろふ」の紙に触れる「音」と、その「接触感」のようなものが、からみ合っている。
虫のシズル感………。

   ふところに鳴る菓子袋雪降れり  長谷川双魚

「菓子」の音が、冷えていく(!)。「ふところ」に「菓子」がある嬉しさが、微量の「温かさ」として感じられ、そしてその「嬉しさ」も冷えていく。

「投げし音耳に返りし慈善鍋 阿波野青畝」では、聴覚が、運動感覚と結ばれており、「日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり 松瀬青々」では、聞こえない音を視覚を通じて聞いている。

「春なれや梵音発すフライパン 小澤實」は(おそらく)聞こえていない音を「季感を通じて聞く」という変なことをしている。


「俳句は宿命として絵画と甚だ似通ったものである」(虚子俳話)ということは、重々、承知。視覚優位のその裏で、聴覚は他の感覚ともつれ合って、なにかを、やらかしているようだ。(ラストあいまい)
感覚の交響(1)
「煮る→雨」の取り合わせはよくある、らしい。

  石ころも雑魚と煮ゆるや春の雨  前田普羅
  子は飯を母は粥煮て花の雨    石橋秀野
  花烏賊を煮て吹き降りの夕なり  百合山羽公
  にはとりの煮ゆる匂ひや雪もよひ 鴇田智哉

ここには、感覚の交響の面白さがある。

外は雨。自分は室内。耳から雨音、しかし肌にふれるのは、鍋からあがる湯気。

冷たさと温かさが、いちどに感覚される。あるいは、外の雨はやや固く、内の湿気はやや柔らかく。「雨」というのは、雲の見た目も、雨の音も、かなり触覚「的」なものなだけに(青空はぜんぜん触覚的ではない)。


  煮南瓜の大いに余り星月夜    波多野爽波
  煮凝やにぎやかに星移りゐる   原 裕

そして、できてしまった煮物には、なぜか夜空がよく似合う。

フリーライダー
先日、さる結社の句会におジャマしてきた。芝不器男賞のパーティーで、知り合った皆さんに誘っていただいたのだ。アホな句が出せて、よい句が読めて楽しかった。若い方が多かった。「みんなで、角川俳句賞出そうね」と言い合って別れました。記念に、当日のダメ句を一句、あげときます。

   春の服着て弱さうな男たち  信治

さて、そちらでは、たいへん温かく迎えていただいたのだが。
外部の人間が句会に参加することを、フリーライダー(只乗り者)として、嫌う結社は多いだろう。その場の富は、集団に対する帰属と引き替えだよ、という感覚。だいいち、入らなそうな人は、呼んでもらえないですよね。

しかし、その日は、こっぱずかしい言葉ですが、「同時代感覚」のようなものを感じて、たいへん面白かった。けっこう、みんなうっすら同じようなこと考えてない? と思った。その感覚を、もって歩くことは、どちらさんにとっても悪いことではないはずで。

嫌われてもいいから、なるべく、あちこち、ウロチョロしたいものだと思った次第。(そのうち、イージーライダーみたいに、撃たれる)

俳句の朗読について
ばらばらっと書きます。

先日、俳句朗読の催しに参加してきました。
(↓こちらのBBSの2006/4/3あたりの書込みで、様子が分かります)
http://6405.teacup.com/haisato/bbs

去年、某嬢(アヤカに非ず。トシキにも非ず)が「俳句って、朗読に、むいてないんちゃう?」(伊予弁てきとう)と語るのを聞いて以来、まあ、そういうことは、言えなくはないかもと、思っていました。

いちばんのむいてないポイントは、俳句は圧縮性が勝負なところでしょうか。

話者のことばが発されるスピードに、聞き手のイメージが浮かぶスピードが、追いつかない。かといって、ゆっくり読めばいいというものでもないのは、たとえば二句一章の場合。二句のあいだの飛躍に圧縮があるわけなので、5音なり12音なりを聞いた後で、その切れ目に立ち戻って、イメージを解凍しなければならない。なかなか、聞き手の仕事が多くて難しい。

しかし、朗読は、聞くのもやるのも、なかなか面白いです。

いちど書かれた詩語を声にすることは、言葉を産み直す、とでもいうんでしょうか、発語の瞬間を演技することです。「ああ、この人の言葉はこんなかんじで、出てくるのかあ」と、いきなり納得できてしまう。

その意味で、島田牙城さんの日舞朗読「男」が、爆笑で迎えられたことは、正しく当日のピークでありトリにふさわしかった。

自分の朗読原稿をここにあげておきます。(字で読んでも、そんなに、あれかもしれませんが)いちおう。

「今日は特に」

  春の朝この人はまだ寝てゐます
  目の開いて起きたと思ふ自分かな
  春の朝顔を洗つて飯を食ふ
  新聞の犬の写真に感心す

  外へ行く靴を履かねば行けぬなり

  電線にあるくるくるとした部分
  この表札は失敗だらう人の家
  人の家テレビの裏が見えるなり
  人の家人がこちらを見てゐたり
  穴を掘り工事の人ら静かなる
  小さき男の押しゐたる犬小屋ほどの機械かな
  だいたいで工事の終る春の昼
  帰りゆく工事の人よ吾も帰る

  下りるしかなく下りてゆく春の坂

  玄関といふ家の穴ドアのある
  手使はず靴を脱ぐことができる
  ただいまと家に言ふなり春の暮
  電球が切れていろいろイヤになり
  しとどに濡れて薬罐に映る私かな
  瓦斯の火の音すさまじき自宅かな
  沸き立てる薬罐をわざと見てをりぬ
  茶筒にお茶の湧くごとく我が心にも雨のふる

  ものの音三つ二つ一つかな
06/4/3
俳句の朗読をしてきました。そのことについて、まず、書きたいところなんですが、それは、ちょっと後日にいたします。(ばたばた)

人間の、モチーフとその開発について、考えさせる文章を、たまたま続けて読みました。

夏目房之介ブログ「ひさびさに書の会」
http://www.ringolab.com/note/natsume2/archives/
保坂和志web草思連載「『考え続ける』という意志」
http://web.soshisha.com/archives/life/2006_0330.php

保坂和志は「あぶさん」の景浦が50代でまだプロ野球の現役選手であることに触れて、「囲碁や将棋でDH制とか代打のひと振りみたいなことが可能だったら、棋士のピークはもっとずっと延ばせるだろう。」と、書いています。

俳句はまさに、景浦や岩田鉄五郎みたいな人ばかりの世界だと思った。
一振り稼業ですからね。


「にょほほほ~~~~~~~」
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