胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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またメモ
アヤカさんの「電子レンジ」と「ねじ巻き」の >最近よく三橋敏雄の「厳正独立の一句」を思う を受けて、なんか書きたい。

「匿名」と「無名」。「神様」が書いたような俳句(そりゃ、一番カッコイイよな!)
尾形亀之助「全くの住所不定へ、それからその次へ」。。。デュシャンの署名。。。でも、けっきょく方法には中味が必要なんじゃあないか、という。。。。高柳重信の「金魚玉明日は歴史の試験かな」。。。久保田万太郎。。。

わー、長くなりそう。

(メモで、思わせぶりして結局書かない、というふうにはしないですよ)
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06/5/19
「季題別富安風生全句集」
さわDさんに「風生の句がまとまって読める本があるか」と質問されていたのをフト思い出し「日本の古本屋」を見ていたら、むらむら欲しくなって、自分が先に買ってしまったのだ。さわDさん、ごめん。朝日文庫の「阿波野青畝・富安風生集」も充実しています。

風生、九十二歳のときの出版で、収録句数一万七千七百余句。
「季題別」ならではのことを、パラパラ調べる。

作家は、ひとつの季語を、どれくらいくりかえし使うか。

風生は「秋風」についていえば、<秋風の昼の銀座を歩きゐし>(大正十一年)以来、約五十年間で、百十六句つくっておられます。年に二句は、つくらないと体の調子が悪い。

代表句が、出来てしまったあとも、その季語を使うのか。

<よろこべばしきりに落つる木の実かな>(昭和七年)の「木の実」の場合。第一句集『草の花』に四句登場、お気に入りの季語だったと思われるのに「よろこべば」以後、ずーっと「木の実」の句は発表されていません。(「木の実独楽」や「椎の実」はありますが)なるほど。(二十年後の昭和二十七年にぽつりと一句<木の実落つ蜻蛉も翔たぬ静けさに>……これは作らなくてもよかったような気も……いやいやいやいや)
メモ
加倉井秋をのこと。

甘え*モダニズム……唐様で書く三代目……形式への信頼……もたれかかり……
「俳句」外へとバランスを崩す……と見せて……


ただごとの詩としての成立要件……非・「美」……非・「ヒューマニティ」
俳人格……パフォーマンス……碧巌録……ではなく……
もっともよく無意味であるとはどういうことか……

もっとも無意味なものに、選好が働いている……という暗示……手応え……
世界はそれを「美」と呼ぶんだぜ……とか

あれ、結論、出ちゃったかな?
ピジンでGOよ
ようするにピジンで、いいんじゃないかと思うんである。何の話かと言えば、さきごろ話題になった俳人の文語文法のアバウトさの話。

いっぽうに「文語の過去の助動詞『き』は、口語の『た』とイコールではない」とか、「『つ』を『つつ』と混同するな」という意見がある(これは、もっともだと思うが)。近世以前になかった言葉は、文語的に活用したり活用語と接続させちゃダメ(例:×「ささくれし」→ ○「ささくれた」)という意見も読んだことがある。

いっぽうに「そういうことを言われたら『俳文法』ですから! と返せばいい」と言う人もいる。

それって、「ピジン」ってことですよね。「ピジン英語」というのは、南のほうでよく使われる、現地語と混交した英語のこと。coffee が kopi になったり、a little が liklik になったりする。俳句の言葉は「ピジン文語」なんだと考えると分かりやすい。ピジンだから「妻」も「夫」もおんなじ「ツマ」。「二ン月」とか「食うぶ」とか「夕星(ゆふづつ)」とか、すごくピジン。

またいっぽうで「文語と口語の一句の中での混用は避けたい」と言う人は多い。「俳文法」OKでも「混用不可」という人もいると思う(多数派?)。厳密には、切字と口語もダメなのかな。

でも、ピジン的にはOKです。

  大風やはうれん草が落ちてゐる   千葉皓史
  指一本出してつつきぬ冷し瓜    波多野爽波
  ペンキ屋が書いても秋てふ字は淋し 加倉井秋を

ゆるいのが魅力の句は、たくさんあるんだから、自分の手をしばっちゃもったいない。(もちろんカチッと作りたいときは、辞書をひきひき文語でやりますが)


ええい、字余ってをるわ
加倉井秋を「午後の窓」を読む。

  どう置いても栄螺の殻は安定す    秋を

歳時記の「栄螺」の項で見た、この句の機知に興味をもって読み始めたのだが、この人、予想以上に変な人だった。ともかく、よく字余る。直せば直るところで、字余る。

  桐咲けりどの家もどこかに子供ゐる  秋を
  海水着着てポストがあるので曲る   〃
  夏来る砥石のそばに束子ありて    〃

あと、めそめそする。

  毛糸編む機械かなしや膝を入れ    秋を  
  さびしみてをれば舟蟲群がるよ    〃

新しがった素材を、もってくる。

  さくら咲くコンクリートを煉つてゐる 秋を
  昼寝より覚めて瓦斯タンクがありぬ  〃
  ごみ箱に乗りメーデーの列を見る   〃

どうですか、こういう人。僕はこの人は「親戚だ」と、思いました。

字余りは、そこでちょっと「声」というか「かんじ」を出す、という試みだろう。でも、読者への寄りかかり、ととる人も、きっといるだろう。余談ですが、この句集、版形がすこし天地短くて、寸詰まりのかたち。タイトルの字配りもパラパラとして、非常にカワイイ。つまり、なにもかも、甘えた感じがいっぱいなんですが、、、、うーん、好きですね。

   そんな時刻石燈籠に蝿びつしり  秋を

「そんな時刻」って、言われても、困るわ、秋をちゃん。
感覚の交響(3)
「匂ひ」と他の感覚の交響。

   水たまり踏んでくちなし匂ふ夜へ 小川軽舟

音と匂いと運動感覚が動員されていることで、かえって暗さが生々しい。まるで読み手が目かくしでもされて、句の中に入っていくような。そして、もひとつひっくり返して、闇の中の「くちなし」の、見えない白まで見せようという。うーん、華麗なるテクニック。

   湖畔亭にヘヤピンこぼれ雷匂ふ  西東三鬼

ピンの鈍い光りと触れあう音、今すぐ降ってきそうな雨、オゾンの匂い(?)。なにやら「金属っぽさ」があふれる空間。口に金っ気の味がしそうなほど。「湖畔亭」が、低い雲のすぐ下につきだしたデッキを想像させ、とりまく水が、電気と金属の仲をとりもっている。(ヘヤピンに雷が落ちたら、こわいなと思って、作ったんだったりして)

「匂い」は、他の五感に喩えにくい感覚(「ざらっとした感触」とか「明るい音」というような言い方がしにくい)。そのぶん、他の感覚とクロスする位置に置かれると、言葉が直接指示できない微妙なあたりを、ぼんやりと指してくれる気がする。知らないことを思い出そうとしているような。すくなくとも「金属っぽさ」という言葉は、はじめて使いました。
馬鹿と祭り
内田樹ブログ「ナショナリズムと集団性」より引用。

帰属すべき集団を選ぶときのたいせつな基準の一つは「サイズ」である。当たり前だが、互酬的集団はサイズが大きいほど成員ひとりひとりの受益機会は増える。だが、どのような集団も、あるサイズを超えると集団の維持が自己目的化し、集団成員の互酬的コミュニケーションには副次的な配慮しかされなくなる。そのような集団は成員をあまり幸福にはしてくれない。
http://blog.tatsuru.com/archives/001692.php

どの世界でも、ありがちな話。じゃあ、ジャストサイズの集団なら問題ないのか、というと。
小田島隆史ブログ「馬鹿と祭り」より。われわれ日本人の最低位に存する心性に、さらりと触れて痛烈。

祭りのハッピを来た人々は、「群衆」ではない。「群衆」もまたモラルの低い人々ではあるが、しょせんは、一過性の存在だ。(中略)法被姿の「連」や、戦闘服を身にまとった「ゾク」は(中略)群衆よりずっと帰属意識が高く、それゆえ粗暴さや品の無さにおいても、より顕著な特徴をそなえた人々だ。むしろ、「徒党」と呼ぶべきだと思う。
http://takoashi.air-nifty.com/diary/2006/04/post_6bf4.html

うーーん。腰折れをひとつ。

   馬鹿祭り遠く見てをり乳首を立て  信治
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