胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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文学作品に見る自由律俳句
いがらしみきおの「ぼのぼの」5巻に登場するオオサンショウウオさんは、自由律の俳人です。たぶん「層雲」の流れを汲む。

   蹴る子蹴りやすい子五月晴れの下で           オオサンショウウオ
   名もない草を持たされし午後持つ手をかえてみる     〃
   イボの話イボの大きさの話子に石をもたせる       〃
   いない者のうわさをするリスがイボにそっとふれてくる  〃
  
さすがに「イボ」のモチーフの句が多いです。

保坂和志の短めの長編小説「もうひとつの季節」の印象的なエピソード。
  
山頭火の句のことを、どこかで聞いてきた「蝦乃木」は、はじめ「まつすぐな道でさみしい」が俳句になるんだったら「駅前は人通りが多い」だって「四角い砂糖で甘い」だって、何だって俳句になると言っていたのですが、あるとき「心境がわかった」「『まっすぐな道はさみしい』ってことを言ってたんやな」自分も、自由律をはじめたので、聞いてくれと、主人公に言います。

   変な名字の人だ
   
主人公の作家が、あきれて「歌心がないじゃないか」というと、蝦乃木は「中野ぉ、これは短歌ちゃうど、俳句やど」と反論します。分かってるなあ。

あと、これは俳句として書かれたものではないのですが

   しかもフタがない     

これは、ヨシタケシンスケさんのイラスト集のタイトルです。
あ、本のタイトルって、自由律が、いろいろありそうですね。

   国旗が垂れる       
   かの人や月        
   21世紀の俳句      

上からそれぞれ、尾辻克彦、いくえみ綾、宗左近の、本の書名です。宗左近、亡くなりましたね。
かんぜんにとりとめがなくなってしまったので、また。
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06/6/22
来月の、さる結社の句会、出された兼題が「入眠儀式」。

入眠儀式というのは、寝る前に羊を数えたりする、あれです。
あの、そんな俳句、読んだことないんですけど!

メンバーの方曰く「うちは、大喜利体質なもので」。
今から、どんな句会になるか、楽しみです。

  男女問はず知りたる人を呼びいだし端からキスをする寝(いね)がてに  信治

短歌だしなあ。
「現代人により近い感性が新しい」
『俳句研究』2006.7月号「今月のことば抄」より
「『何が新しいか』といふ難問には『現代人により近い感性が新しい』と私は私流に答へたい。俳句はいつの時代も新しくなければならない。従ってその時代人の情感に最も近いところから詠ひ上ぐべきである。」西東三鬼(『現代俳句』昭21.10)---宇多喜代子氏の引用による。

この三鬼を能天気と見るか。
三鬼も、それが棒玉であることは承知の上での「私流」だろう。

それで思い出したのが、『俳句研究』2004.11月号「俳句研究賞選考座談会」。
「いまは五十歳の人でも七掛けと言われるので三十五歳になってしまうわけで(略)芭蕉が四十歳台で翁と言われた時代と比較すると成熟度が遅いんじゃないかな。だから、五十歳くらいでもけっこう可愛らしい句を作ってみたりします(略)海外の女性が『日本人はなぜあんなに幼いんだろう』というそうです。俳句も、世間的には十分成熟しているはずの人たちがまだ稚ないところをなぞっている(略)それをどう太らせたり、襞の深いものにしていくか」中原道夫氏の発言より。

別に、外人女の言うこととか、気にしなくてもいいのに。いや、そういうことじゃ、ないですね。はじめて読んだときは、ムムム、抑圧的な発言と思ったのだが、読み返してみると、俳壇全体に対する苛立ちとも、氏が自分に言ってるとも、とれる。

『俳句研究』1981.1月号 
「<晴れ間細し油障子の中の恋> 一と口に言って達者な句だが、作者はもう二十三歳、当り前なのかも知れない。ほかにもマトをはずさないウマイ句がいくつも目についた。しかし、年齢的に言って、これからが一番むずかしい時期にさしかかる。おとなの俳句を書かねばならなくなるからだ」三橋敏雄、小林恭二作品に対する評文。(単行本「青春俳句講座」小澤實氏の引用による)

恭二の「二十三歳」にして「達者な句」を、いかにもワカモノの俳句だねえと、はげましているのか、からかっているのか、ともかく、敏雄の言う「おとなの俳句」が、「マトをはずさないウマイ句」とはまったく別次元にあることは、確かのようだ。

天気さんブログ 2006.6.2記事「『私は俳句である』」
「作者が、みずからの個性などに思いをはせる必要はない。(略)百面相で変な顔をいろいろ作ってみることはできるが、俳句で、自分の顔をいろいろ作ることは、どうやら不可能に近い。(略)当たり前のことだが、「作れる句しか作れない」」http://tenki00.exblog.jp/m2006-06-01/#3165892

だって自分をフィルターとして俳句「が」書くんだから、というわけで、天気さんはいつも明快である。

自分は?
自分は、別に下手なだけで、幼いと思ってないモン。
訂正(あいたたた)
以前「2という数詞」という記事中で、「河骨の二もと咲くや雨の中」の作者を「松尾芭蕉」としていましたが、正しくは「与謝蕪村」でした。

松尾芭蕉様ならびに与謝蕪村様、関係者のみなさまに、ご迷惑をおかけしたことを、お詫び申し上げます。





インターネット上の俳句データベースの間違いを、踏襲してしまいました……。クロスチェックをかけないと、いけなかった。お恥ずかしい。
俳句を読むこと
西原天気さんが、ブログで、上田の「団地」について書いて下さっている。
http://tenki00.exblog.jp/3181686

嬉しかったです。小躍りするほど。(あちらのコメント欄に、小躍りの跡が残っています)

「里」で、能城檀さんが書いて下さったときも、こちらの特設掲示板で、みなさんが書いてくださったときも、佐藤文香の不器男賞の作品について「里」六月号でいろいろな人が書いて下さっているのを読んだときも、ほとほと嬉しかったです(注目していただけるのは、新人の特権ですね)。

俳句を「人が読んでくれる」ということは、じつに、ありがたい。

俳句の場合、読むことは、読者からの「贈与」だから、ありがたいです。

私の拙い作を、優れた読み手である天気さんが読んで下さったという、上下関係ゆえに、
読むことが贈与になるのではありません。(今回は、そういう面もありますがw)

いかなる過去の名句も、その句にとっていちばん新しい読者に、今日、出会って読まれることだけが栄光だから「贈与」なんです。

読者のあなたが、それを読まなくても、マンガはたぶんマンガでしょう。映画も、ポップミュージックも。表現自体(と、それを支えるシステムと)が強固で、たとえば文化的枠組みを平気で超えていく力がある。受け手は、そこ(作品およびシステム)に「享受者」として、参加します。

俳句は、誤解をおそれず言えば、より脆弱な表現です。他の強い方法に比べて、文脈依存性(過去のアーカイブ、読みのルール、仲間意識etc)が、ひじょうに高い。言い換えれば、しかるべき読み手に出会えなければ、表現として成り立たない。作者は特権的地位になく、いわば受け手は、ジャンルの「主原料」である。

他のジャンルと違い、ここでは、上から下へではなく(まして下から上へではなく)横位置で表現が手渡されます。そして、全員が受け手です。かくして読むことは、作者、作品、ジャンルを、成り立たせる「贈与」です。

読んで下さって、ほんとうに、ありがとうございます。句になりかわりまして、御礼をもうしあげます。また、みなさんの作品を読ませて下さい。

よろしくお願いいたします。


06/6/12
去年出た「12の現代俳人論」の「波多野爽波論」(中岡毅雄)から、読みついで、飯島晴子「俳句発見」(昭55)を、読んでいます。

飯島晴子が、爽波と素十を比較し「素十俳句には非自然の面白さがあり、爽波氏の俳句には自然が手放されていないよさがある」と書いたことを引いて、中岡さんはそれを「錯誤」と言い切っているのだけれど、どうなんだ、と思って。

飯島晴子は同じ文中で「爽波氏の写生とは、自己以外の外界と(略)できるかぎり強く接触することによって、自己の意識の下にかくれているものに日のめを見せる」ことなのだろうと、書いていて、要は「自然」という言葉の使い方の違いであった、ということが分かったのですが、それはともかく「俳句発見」は、よかった。

飯島晴子は、「四S前後」という文章で、ホトトギス系の作品の或るものは「言葉の機能が実によい」と言い、それらを「言葉が(略)詩の機能を果たしているかどうか、という観点から再評価したい」と書きます。しかし一方で「五十年前、秋桜子・誓子ではなく、青畝・素十を俳句が選んでいたとしたら、今日の俳句の衰弱は更にひどいことになっていただろう」と言います(当時のホトトギス雑詠の、退廃・低調ぶりを容赦なく例をあげて、示したあとに)。

1)問題設定が、このブログで書いている内容と、そこはかとなく一致していて嬉しい。
2)ていうか、この二十年の俳句の多くの部分(岸本、長谷川、小澤各氏らの仕事に代表される)が、晴子の問題設定の延長線上にあった、とも言えるか。
3)俳句が、青畝・素十を選んでいたら、という認識に慄然。なぜ自分の好きな素十が、その後の俳句にとってビミョーな存在であったか、ちょっと分かった。
4)しかし、俳句の現在が「青畝・素十」を選び直してしまった感がある、っつーのは、どーよ。


   竹植ゑてそれは綺麗に歩いて行く  飯島晴子

角川俳句大歳時記(夏)
買いました。

想像していたのとちょっと違って、過去のアーカイブというよりは、俳句の「現在」の記録、というかんじ。例句は、江戸・昭和(特に戦後)・平成がたっぷり、明治大正はちょちょっと三句ぐらいで。

十年くらい経つと、いい具合に懐かしくなるんだろうな、これ、と思いました。

五十句
昨日のエントリで、「上田の句」とか書きましたが、今ハイクマ上に、ほとんど句が出てないことに気がつきました。

以前、三人の応募作の読み比べをやった時のリンクがまだ生きているので、貼っておきます。
「団地」

五十句まとめるのは、賞に応募という必要があってやってるわけですが、面白いです。なんというか、こんなフンイキなことがやりたいんだろうか、自分……みたいな。「理想」みたいなものが、見えてくる。もちろんそれは、まだ自分にしか見えない幻なんですが。同時に、自分のくせやくさみも、出てしまうから、そういうところは上手によけて、と。
「集めて編むのが編集者」(土田世紀『編集王』)
俳句を読む
きのうの続き。補足。

俳句の、もっとも豊かな富は、ああいうものが「読める」「分る」ことのうちにある。(*0)
すべての表現は、送り手と受け手の共同作業だが、俳句は、とりわけ受け手の主導権が強い。または、仕事量が多い。(*1)

ときどき海鳥で、体が重すぎて、地べたから飛び立つのにひどく苦労する、不細工な(愛しげな)鳥がいる。そういう鳥は、断崖絶壁のある島などに棲んでいて、崖の上から位置エネルギーを利用して滑空し、必要な浮力を得るのだが、俳句も、この鳥と同様である(長いたとえだ)。そうとう読者の「力」を借りないと、地べたから、飛び立てない。(*2)

読者が表現に与える「力」とは「分かろう」という欲望である。そして、俳句はことさらに、読者をわずかに先行し鼻先をかすめ「分かろう」という欲望を惹起しなければ、どこにも行けないという類の表現なのだ。(*3)

つまり俳句は、必要条件として「謎」でなければならない。「分る」句は、だめなのよ。(*4)


   鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規


*0. だから、実作指導によって、指導を受ける人たちの「読み」が汚れるのがいやなんです。
*1. 送り手の仕事量が多い表現ほど、読み手が楽、と誰かが言ってた。例・少年マンガ。
*2. 現代詩とか、現代美術とか、現代音楽とかも。「現代」がつくと、受け手の仕事量が多くなる。
*3. 先へ行きすぎると「出鱈目」になる。「謎」と「出鱈目」の境目は、読者が自分のレベルに合わせて決める。
*4. そういえば、上田の句は、わりと分かりやすいですよね。それは、困りました。
俳句を読む人
俳句で、もっともおどろくべきことは、あんなものが、読むと、分るということだ。
前回のエントリで書いた高柳重信の「驚倒」は、まさに、この「おどろく」だろう。お前ら、なんで分かるんだよ、という。

俳句を「読む」と「分る」。
カッコに入れて強調してみたが、意味がなかった。

このおどろきは、俳句の生成の現場にすでにある。

作者は、みずからの「仮想的」読者となり、できた俳句を読み、「分る」ので、おどろく(*1)(*2)。
そのとき、その句を書いているのは「他者」ってやつかもしれない。
そして読者は、作者と共におどろくことによって「分る」。

読者に「あらかじめ分かられて」しまっている句は、「俗情との結託」に堕するあやうさをはらむ。それでは、自己と他者が似すぎだろう。分かってるものどうしの目くばせは、俳句という遊びの、興趣のひとつではあるが(「どうですか、この季語」「おおお、キてますなあ」)。

では、なぜ「分る」ことが、おどろきであるようなものが、かくもたやすく「書けて」しまうのか。
それは「俳句」だから。「読む」ことのうちに「歴史性」がふくまれているから。型が、かってに書くから。型が、かってに読むから。べつに「俳句形式の魔」とかいう話ではなく、もっと、ありふれた。

*1.三橋敏雄「恒信風」インタビュー発言「ほとんど普段感動なんかしないから、なんとか感動したいと。そのために俳句で、自分がなんとなく感知しているなにかの言葉の眠っている意味を発見してぶつけると、あっ、いけたなと、そこで感動するんでね(略)作品になってから自分の句に感動する。感動できなきゃその句はだめだと思いますよ」

*2.もちろん「仮想的読者」として読む行為は、「書く」行為の中に含まれているわけですが、そこは小さくタイムスリップを、繰り返してますね、書いてる間中。

たじまさんのブログの「相対性俳句論」に、わりと伝統的な立場から、なんとなく呼応しているつもり。
http://moon.ap.teacup.com/tajima/203.html
「匿名」と「無名」(改)
フレデリック・ブラウンという昔のSF作家の短編「スポンサーから一言」。

ある日、世界中のラジオから「ここでスポンサーから一言……『戦え!』」というメッセージが流れる。アメリカはソ連の仕業だと思い、ソ連はアメリカの仕業だと思い、宗教界は悪魔の声だという意見と、神の逆説だという意見に分裂し……世界中でいろいろあって、けっきょく最終戦争が回避される。

この短編のテーマは「すべてのメッセージは、発信者の身元が気になる」ということだ。
いや、「すべての伝達行為は、その内容として、発信者をふくむ」かな。

俳句は、しばしば「匿名」で読者に手渡される。しかし読者が、匿名の一句から、鮭のように遡って作者像を仮想するのは、ほとんど条件反射のうちである。人間、知らない人の言うことは、聞けないからだ。

読者は「その人の言うことを聞く気になれるかどうか」言い換えると、作者が「いい人」かどうか「好きになれる人」かどうかを、作品中に探そうとする(あと、俳句の場合「俳句観が合うかどうか」)。そして、なんとなく「どういう」「誰か」が書いた、という手がかりを集めて得心する。新人賞の審査で、審査委員たちが「作者は理系か」「これは海外詠か」「若い人か」とか気にしているのを読むと、すこし微笑ましい、というか同情する。あれはブラインドテストだから(42%の人が、ペプシコーラを選びました)。自分も、賞に応募するとき、若いオッサンですよ、という自己紹介が、かすかに伝わるような句が一句あるといい、と思ったりするが、そんな都合のいい句は、なかなか書けない。余談であった。

さて。しかし、作者像が気になるという読者の性を越えて、作者が誰であってもいい、と思わせる句がある。それは「神様」が書いたような句であり、誰が書いてもよかったような句でもある。それは、普通の句会に普通にある。


   金魚玉明日は歴史の試験かな   高柳重信


少年時代の重信は、句会で大人たちがこの句をほめそやすのを聞いて、驚倒した、なぜなら、その句は俳句形式がかってに書いたものであって、彼自身は指一本動かしていなかったからだ、、、、、と書いたか語ったか、どこで読んだのだったか忘れてしまったが。この「金魚玉」の句なんかは、何も言ってないところが、なかなか「神様」っぽい。(子供の神様ではありますが)


   凩に生きて届きし海鼠かな    石井露月


俳句は「賜る」もの、とか、そういう話ではなく。

俳句の(あるいはすべての)文言には、語の意味、文の意味に還元できないメタメッセージが、たっぷりとふくまれている。そのひとつに、作品から自ずと知れる作者像がある。しかし俳句は、「誰か」特定の、発信者の個性をメッセージしないような、メッセージで(も)ありうる。

それは、ほとんど型でできている、俳句という方法の、一つのメリットだろう。

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