胃のかたち
上田信治による俳句研究。
200606<<12345678910111213141516171819202122232425262728293031>>200608
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ヘンな句ばっかり
前のエントリで挙げた句が、読み返して面白かったので、かんたんな鑑賞を。

  とんとんと歩く子鴉名はヤコブ  素十

近年では並んで発表された「たべ飽きてとんとん歩く鴉の子」のほうが、有名かも知れないが、もともと「子はヤコブ」の句が、虚子撰の「雑詠選集」にも入り、評価が高かった。ハイデルベルヒ居住時代の句なので、海外詠としての評価か。ときどき「何も言ってない」ことを誉められる句があるが、この句は、何も言ってない上、よけいなことまで言っている。おもしろい。

  ついて行く大きな男橇のあと   〃

この句、「ついて行く」と「男」の間に「大きな」がはさまっている分、ぶつぶつのうどんのように、切れてしまっているのだが、それが、このゆるい情景(おそらく、たいしたスピードではない橇、とっとっととついて行く男)に、よく釣り合っている。下五では、もう眼前にない橇の話をしている。

  落ちてゆく木の実の見えて海青く 尚毅

「木の実の見えて」の「見えて」が、おかしい。「見えて」と言っていながら、ここは木の実が「見えなくなる」ことを、言っているのだが「海青く」と言われて困った。「木の実見えけり海青く」だったら、落ちきるところまで見終わって、ああ海が青い、というだけの話だ。
「木の実の見えて海青く」と言われてしまうと、この人が、いつ海が青いことを見たのか(あるいは見てもいないのか)よく分からなくなる。木の実も、ちゃんと落ち切ったのか、どうか。ああ、変な句だ。

  そのへんに鯔の来てゐる祭かな  〃

「そのへんに」という切り出しにつきる。「そのへんに」なんなんだか、分からない上に、「そのへん」てお前はどこだよ!!と、突っ込まざるをえない。以前引いた、加倉井秋をの「そんな時刻石燈籠に蝿びつしり」を思い出させる、しょうがなさである。
スポンサーサイト
すーっと入る(改)
これは、素十の得意技かもしれない。名詞をはずして「すーっと入る」。


  ひつぱれる糸まつすぐや甲虫   素十
  漂へる手袋のある運河かな    〃
  歩み来し人麦踏みを始めけり   〃
  とんとんと歩く子鴉名はヤコブ  〃
  ついて行く大きな男橇のあと   〃


上五に名詞がくれば、読者は、そこでとりあえずの具体(視覚像といってもいい)をキープして、中七へ進める。対して、素十の掲出句は、上五だけではナンダカ分からない。読者は、具体の不在によって、次の語句へと吸引され、そこに、上五中七間を渡っていくテンションが生まれる。

もう一人「すーっと入る」ことに心をくだく人、岸本尚毅。


  はからずもべつたら市の夕嵐   尚毅
  今年また鰆の頃の忌日かな    〃
  落ちてゆく木の実の見えて海青く 〃 
  そのへんに鯔の来てゐる祭かな  〃


これらの句は、上五だけではナンダカ分からないのは同じだが、うしろの語句の予期のさせ方に、ゆらぎがある。

素十の「すーっと入る」上五は、活用語の連体形で終ったり副詞節だったりするので、うしろに来る語の性質は、体言、用言、と上五の段階で決定している。

尚毅の「はからずも」「今年また」という上五は、中七以下でそれをどう受けるかを、確定しない。うしろにかかっていくテンションを持ちながら、かかりかたが不確定というたよりなさ。そのことは、読者が渡ってゆく上五中七の間の切れ目を、クレバスのように深くする。作者が、上五だけ作って、いったん家に帰ってしまったんじゃないか。そう思わせるほどの、間。

素十の工夫は、一物仕立てを「黄金を打ち延べたる」ように、確固とした語句の結びつきで作る工夫。

尚毅の工夫は、言ってみれば「石鹸玉がぶるぶる伸びてゆく」ような。茫洋としていながら「形をなしてゆく」ように作る工夫と言えるか。
06/7/21
ああっというまに、更新の間が空いていて、おどろく。
なんか、雨ばっかりですね。


梅雨空にメーター回る雲回る  信治
雨蛙駅にホースの巻いてあり


その句がそんなによかったか
若き日の高野素十は、捨女の「雪の朝二の字二の字の下駄のあと」で、俳句開眼したのだそうだ。「俺は、俳句はこれでいい」というようなことを、人に語ったらしい。どうも素十という人は、ほかの作者と、違う成分でできている。

   甘草の芽のとびとびの一ならび  素十

この「とびとびの一ならび」は、かなり「二の字二の字の」と、近しいものだろう。二句に共通する、メカニカルな一致というか、ぴたりと言い得て、しかもそれだけなかんじが、素十のツボなのかと、想像してみる。

   ゆれ合へる甘茶の杓をとりにけり  〃

筒井康隆の「虚航船団」の登場人物の一人に、人間化した文房具のナンバリングスタンプがいる。彼は、まわりには重厚な人物とみなされているが、実は周囲の事象を数としてカウントすることにしか興味がなく、そのスタンプの数字がそろって変るとき(9999....が0000.....になるとき)うーーん、と快感のため息をもらす。

素十もまた、感覚入力と、言葉による把握と、その言葉じたいの姿などが、ぴたりと揃うと、うーーんと、快感のため息をもらすような人だったのではないか、と……。いや、失礼な想像になってしまったが。

「二の字二の字」から補助線を引いて、素十のことを考えると、いわゆる自然観照や人間的感情とは全く無縁の、素十だけの快感原則が見えてくるような気がして、思わず、目を凝らしてしまうのだ。そのことは、自分にとって「考え減り」のしない、気に入りの謎のひとつである。

甘草の句が「草の芽俳句」「瑣末主義」と批判されたことについて、素十は、甘草は「一つのいとけなき宿命の姿」であり「かなしきものと感じ美しきものと感じた」(「芹」S38,2 )と書くのだが、それは文学的アリバイというか、作者本人にもそういうふうにしか説明できなかったということだろう。それよりも、同じ文中で「とびとびの一ならび」であって「とびとびに一ならび」では、ないのである、と、コレデグウノ音モデマイ、と言わんばかりに言っているのだが、この馬鹿馬鹿しさが、素十らしくて好きだ。

   町中の小公園の茂りかな     〃

という素十の句について、虚子は「こういう句を作っていれば間違いはないし、又こういう句を採れば間違いはない」と言ったという。
「虚子先生の言葉は、私にどういう意味でいわれたのか、先生の意図はどんなところにあったものか、それから度々考えるのであるが未だに判らないままなのである」「そういう意味の判らぬ、然しはっきり覚えている先生の言葉を、遠くのものを見るように判らぬままに時々思い出して繰り返してみるということも、また楽しい一事なのである」(「芹」S40.7 )と、素十は書いている。

虚子が、この句のどこを指して「こういう句」といい「間違いない」と言ったのか。
これも、いい謎である。いい謎を残してくれるのが、いい先生なのだろう。(内田樹もそんなことを言っていた)
夏痩せ
「夏痩せている」
   夏痩や飯を好まず煙草のむ   青鏡(ホトトギス雑詠選集より)
   夏痩せて腕は鉄棒より重し   川端茅舎

「ひとが夏痩せている」
   夏痩の大き目の似て兄おとと  相馬黄枝
   夏痩の人元気にて話好き    高浜年尾
   処女二十歳に夏痩がなにピアノ弾け  竹下しづの女

「夏痩せを心配されている」
   母はわが顔の夏痩のみを言ふ  篠原梵

「夏痩せて死にそうである」
   夏痩の骨にとゞまる命かな   正岡子規
   夏痩の骨にひゞくや桐一葉   〃

「夏痩せて、ちょっと気分がいい」
   掌に熱き粥の清しさ夏やせて  橋本多佳子
   夏痩の頬に當てたる団扇哉   寺田寅彦
   わが部屋のきれいな四角夏痩す 高柳克弘

「夏痩せが景色になっている」
   なつやせや西日さし込む竹格子 大江丸
   夏痩の頬を流れたる冠紐    高浜虚子

「夏痩せ」おもしろい季語です。
ふつうに詠むと、しょぼい人事句になってしまいそうなのに、なかなか。
ナルシスティックな味わいが、ポイント。
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。