胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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メモ(こんど書く)
・十七音のテンション~「魚座」の俳句。(さいきん大まかなことばかり書いていて、すこし、話が粗っぽかったので、いつもの細かい話にもどして)

・「サービス精神」(とはいえ、言いっぱなしになってた、これ。金子兜太の謎のことば「ふたりごころ」とか、なんで句会が必要か、とかのほうへ、引っぱりつつ)

二つ前のエントリのさわDさんのコメントへの、応答。

しばらく前に、界わいで「大衆性」の話って、出てたじゃないですか。
「大衆」という語は、言った瞬間その人を「エリート」にしてしまう魔法の言葉なわけですが。
俳句をやってない人にむけてどうこう、っていうのも口にしたとたん、本人を、へんなものにしてしまう言葉な気がして、むずかしいです。さわDさんの意図の純良なことはうたがいえませんが、
人間、自分じゃないものを代表しちゃいけない、という。(まあ、えらそうなことを言って、自分もどこかで、やらかしているとは思いますが)。

「よそもの」でありつつ、本人、どれくらい「よそもの」なのか気づいていないというのが、理想です。悪気のない無礼者というか。偽正統派というか。そういう人は「俳句をやってない人」「大衆」そのものでもあるので、逆にそれを気にする必要もない、みたいな。
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プープードンドン(賞のこと)
初めて出た「里」の句会で、櫂未知子さんに「あなた、角川とか応募したら」と言われて、はじめて、そんな気になった。

100パーなんの気なしのお言葉だったと思われるが、自分のような「師持たず」で始めた人間にとって、目標ができることはありがたい。〆切があると一人でつくっていても楽しいし、人に言われて始めたことは、理由も必然性もいらないので、気が楽だ。

とはいえ、性分として、いろいろ理由を考える。(ああ、賞がとりたいな)(なんで、とりたいのだろう)(とったらおもしろそうだからだな)。

個人的な動機としては、一発で評価を得られるというおもしろさ。五十句まとめて、人に読んでもらえるというのも、楽しい。句会で一句を提示するのが、摘んできた花一輪を、朝、教室にかざるようなものだとしたら、賞をとるのは、花屋を開店するみたいなものだ。

もうひとつは、自分の俳句と、世間の「俳句」をつなげてみたい、という興味。

これには少しく説明がいるが、自分の身の回りには、おもしろい俳句がちゃんとある、と思う。インターネットとか、自分の出る句会とか、一部の結社誌とか(あちこち読んだり取ったりしている)。
ところが、今、俳句世間(ハイクセケン)の俳句は、おもしろくないと定評がある。俳句のインサイダーたちが、また、現状にやたら悲観的。どうもおかしい、そんなはずはない、このギャップは必ず商売になる。商売といっても、俳句のことだから、お金にはならないだろうけど。

ふたつの山にふたつの貯水池があって、水路でつないでみたら、どっちの水位が高いか分るじゃん、みたいな。そういう意図。

気がついたら、応募上等みたいな若い人とつきあいが始っていた。うん、これは、みんなでワーワー押し寄せたら、城壁を打ち破れないまでも、なんか、中の人も何かが起こっていることに気づくんじゃないかと。
外で騒いでるあれは何? ご飯がなければカマボコを食べればいいじゃない? と。

そうしたら、今年の俳句研究賞を斎藤朝比古さんが受賞され、角川俳句賞の次席(という制度はないですが)が、さいばら天気さん。自分の中の「俳句おもしろいのになー」の、ある部分を代表するお二人が、件の貯水池に水路をつないで下さった。

あー、もう、やっぱりー! というかんじですよ。
すごい、嬉しいです。目的は達せられたから。

でも、また、世間はどっちへ転ぶか分らないので、来年も応募しますけど、角川俳句賞と俳句研究賞。

自分のそれぞれの応募作も、近々ハイクマで発表すると思います。(ネットのおかげで、これができるというのも、嬉しい)(いろんな方の応募50句が読みたい)

あ、そうだ、天気さんが、前、書かれてた「連想ゲーム」って、「渡辺君」のことなんじゃないですか? 
渚男さんに憎まれてましたねえ(笑)。

ワーワーワー、プープー、ドンドン。
言い直し
>ここらあたりで「文学・若者・自己表現 VS. 俳句・中年・遊び」という3対3のタッグ戦が、成立する見込み。でも、自分の場合「サービス精神」みたいなものが乱入してしまうので、闘わずして中年組が有利。

前回のエントリの末尾に書いた部分。上手く言えてないと思い、削除して、こっちへ持ってきた。

じつは言いたかったのは、俳句は、「ある抑圧」を、受け入れた上で成り立つものだ、という話で。

かつて「俳句では畢竟、俳句しか書けない」とつぶやいて、俳句を捨てた前衛俳人がいたとか、いないとか。おそらくその人の眼前にあった「抑圧」。あるいは逆に「俳句形式への信頼」と言う俳人が、うっとりと受け入れているような「抑圧」。

つまり、あらかじめある限界を見る不快、ですかね。

「(略)与えられるのは、必ず、文芸としては二流の位置である。この骨身を削って二流を目ざすというのが、俳句形式にたずさわる醍醐味でもある」とは、飯島晴子の書いたことで。

抑圧にあらがう(または初めから頭に無い)のが、俳句における若者的立場、抑圧を受け入れつつも、あまり言挙げしないのが中年的立場、と、そういうことが言いたかった。

そして二つの立場が対立するように書きましたが、そこがいちばんの書き損ない。実はどっちつかずが大切で、そこを止揚するのが「サービス精神」なんじゃないか、と。俳句の限界を見ないふりをするという「サービス」を想定して、そう思っていたんですが、まあ、この話もそのうち。

天気さんが「自己表現」について記事を書かれている。
いつもながら、天気さんの結論は明快だが「道に石が落ちていて邪魔でしようがない。ひょいとどけようとしたら、見えていたのは一部で、実は岩のように大きな石塊が地面に埋まっていて、ちょっとやそっとでは動きゃあしない。「自己表現」というのは、そんなたぐいのものかもしれない。」と、ちょっと謎めいたことも書かれている。

きっと自己とか固有性は、表現するものではなく(かといって忌避すべきものでもなく)楽しむものなのでしょう。本人にとっても、観客にとっても。

ただ、エンタテインメントの演目には、いろいろある。ボクシングとか人間ポンプとか、魂の叫びとか共同体に対する違和の表明とか。それらが、どうやって人の慰めたりえているのか。そして、それは、一見気楽な俳句の楽しみにも通底するものなのか、と考えていくと、たしかにちょっと、深いかも、です。
美意識……うう
前回の記事中の「作者と読者が、作品をはさんで、それぞれのコードを照らし合うようにするのが、俳句を書く/読むということなんじゃあないか。」というところ。どうも、うまく言えていない気がしていた。そのすぐ前の文で、俳句を読むためのコードとは「季語とか切れとか配合とか先行作品」であるとした。実は、そこに加えようとして、止めた言葉があって。

それは「美意識」というやつです。

ちょっと恥ずかしいから言わずにおこう…と思ってしまったのだが、ここは、言っておかなければいけなかった。「コードの照し合い」という言い方は「俳句とお茶は似ている」というアイデアといっしょに出てきたものなので、ここで言う「コード」は、やっぱり「美意識」。
「美意識」の定義は「何を『佳きもの』とするかについての、先行する価値判断の束」くらいで、いいです。昔で言えば、ワビサビシオリのような。

自分が思う「俳句とお茶の相似性」の根本は、「ワカルワカルということを喜びとする遊び」だということなのだが。(訳のワカラナイことを、ワカラセル遊びと言ってもいい)

遊びのレベルが、すでにあるコードの確認=答え合せなら、俳句もお茶もお稽古事である。美意識の書換えへの挑戦がなければ、つまり、きわどいことをやって、なおかつ分ってもらうのでなければ、本気になる値打ちがない。俳句がイカシテイルのは、一回性を本義とするお茶と違って、字で残るものだから、先人の試みの繰り返しに意味がなく、毎回、全員、利休たり織部たることを、求められているということだ。

「文台引き下ろせば反故」とは、書かれた作物に価値がないということではなく、又あらためて、文台の上で、美意識が問われることだけが、このお遊びの「実」だということだろうし。

小澤實師が「句会に出ない俳人」に対する強い疑問を口にしたことは、ひたすら自分のために茶を点てる(そして時々それをテレビに中継させる)茶人の奇妙さに置き換えてみると、分る気がする。

と、ここまで書いて来て、自分の中に、鬱勃として「遊びとしての俳句」に飽き足らない気持ちがわいてくるのは(!)

人に(前提として)先立たれるというのは、気に入らない
人に(あらかじめ)分られるのは、気に入らない

という若者らしい気持ちだ。ははは、なんだ、自分から言い出しといて!
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