記憶の中の人の声を、思い出してみた。
案外、思い出せるので驚く。
小学校のクラスの同級生たちの声が、けっこう思い出せる。
名前もあやふやな人の声が、脳みそに入っているという不思議。
新卒で入った会社の職場の人たちは、一人一人、ありありとその声を思い出せる。
たしかにイメージできているその人たちの声に、耳をかたむけても、何を言っているかまでは分らないのも不思議。
春睡のうつつに江上トミの声 富安風生
変な句。
江上トミを知っていれば、間違いなくその声を、むりやり想起させられてしまう(自分は知らないのだけれど)。
強力な記憶喚起装置としての俳句。
案外、思い出せるので驚く。
小学校のクラスの同級生たちの声が、けっこう思い出せる。
名前もあやふやな人の声が、脳みそに入っているという不思議。
新卒で入った会社の職場の人たちは、一人一人、ありありとその声を思い出せる。
たしかにイメージできているその人たちの声に、耳をかたむけても、何を言っているかまでは分らないのも不思議。
春睡のうつつに江上トミの声 富安風生
変な句。
江上トミを知っていれば、間違いなくその声を、むりやり想起させられてしまう(自分は知らないのだけれど)。
強力な記憶喚起装置としての俳句。
(承前)
先に、「谷を渡る糸」に俳句を喩えたが、そのばあい、糸が地べたに落ちることは何かと言えば、それはことばが俳句になりそこねるということだろう。(*1) もう一つ言えば、越えられることが分っている谷をいくつ越えても、それはお楽しみとはいえない。詩のことばは、自分で作った谷を、自分で越えるのだ。
さて。
ごくごく淡い内容を、余計なことを言わず調子を上げも下げもせず、十七音を使い切って言い終わる。その平易にみえて際どい「谷」の道行きを、たどり直すことが、杏太郎の句を読む楽しみだ。作者が「俳句は呟き」と言うのなら、それは「つぶやき直す」ことでもあろう。(*2)
あらかじめ、たいしたことを言おうというのではなく、ちょっとのことを、うまく言い終わればおなぐさみ(曲芸)である。すると、そこから遡行して、何か「内容」(*3)めいたものが生じる、という方法。
ところで、ある人にとって「ただごと」が叱り言葉でありうるのは、世界は「ただごと」に満ちており、そこから「ただでないこと」を、拾い出すのが「詩」である、という考えが前提となっている。
杏太郎は主宰誌「魚座」に、猿が木から落ちることを、人は異常なこととして考えるが「『魚座』では、猿がするすると木に登ることの不思議さを、じっくりと考えて欲しい」と書いた。
しかし「猿が木に登る」と書くことは、その「不思議」を書くこととイコールではないはずだ。
もし「猿が木に登る」と書いて、書いたものが俳句になっていれば、それは「不思議」が書けたことになるのだろうか。
……。
案外、そうなのかもしれない。
「魚座」は少人数の結社ながら、会員が、総合誌の新人賞などで存在感をしめした。
(メモをもとに書いているので不確かなのだが)杏太郎は「魚座」誌上で、俳句をつくる以上、俳句の形をしているものが書けるようになったほうが楽しいはずだ、そのための指導は惜しまない、という意味のことを発言していた。たしかに「魚座」は、指導において成功した結社だったと、言えるだろう。
秋風に吹かれて箱を組み立てる 鴇田智哉
鉄棒をくぐれば虫の夜となりし 村田 篠
栗飯のときもごはんを少なめに 仁平 勝
秋の来てバラの名前の美容室 加藤あい沙
虫籠の傾いてゐる朝かな 茅根知子
新聞を畳む音ある秋の夜 鳥居三朗
今年の「魚座」11月号から、引いた。(*4) すでに注目されている作者ばかりだが、共有されているのは、独特の滑らかさだ。(*5) そしてもうひとつ(句ごとに立ち上がってくるものとはいえ、やはりそれぞれよく似た)かすかな「不思議」を共有している。
これらの句が、ことさらに不思議なことを言おうとしているのでは、もちろんない。
言っているのは、当り前の、ただそれだけのことなのだが、「それ」が俳句に「なっている」不思議が、「それ」じたいの不思議さを形象化しているのだ。(*6)
「変哲もないこと」を句にすることは、やはり少し変なことなので、その「変」さが「変哲もないこと」に色移りしている、とも言えるだろう。
個々の作家に対する敬意をすこしも割り引かずに言うのだが、今井杏太郎のメソッドは、とても有効で強力だったのだと思う。(*7)
波が来ていそぎんちやくのひらくなり 今井杏太郎
(この項おわり)
(*1)前記事で、作品の「ひねった」部分や定型との関係などが「谷」を形成する、と書いたのは間違いだった。たとえにこだわるなら、それらは糸に吹く「風」とでも言うべきか。それをたよりに言葉は「谷」を渡るのだが、吹きすぎてもうまくない。
(*2)結果、杏太郎の俳句は、口がきもちいい。かつて松本人志が、「みはいるしゅーまっはー」と言うとき口がきもちいい、と言ったのと、同じ意味で(違うかもしれない)。
(*3)このシリーズでは「内容」という言葉を、「記述」とその「作用」に先行するもの、くらいの意味で使っています。記述の「対象」と、内面的なもの、つまり「目的」とか「心」とか「美意識」をあわせて。なんか、作者が、ないふりをして、たっぷり持っていそうなものも、含まれている。
(*4)最新号や、句集の開けたページから引用するのは、例句探しの手を抜いているわけではなく、あるていどランダムに引いても、傾向が現れていると言いたい。
(*5)「て」や「ば」を忌避しない、句中の明確な切れをむしろ避ける、語彙の傾向として突出しがちな語を避ける、などが「魚座」の文体といえる。
(*6)ことばの「すがた」が、ことばの内容を形象化することを、以前のエントリでも書いた。(こちらとこちら)
(*7)ナックルボールで大リーグ通算318勝をあげたフィル・ニークロ投手は、弟もナックルボーラーで200勝投手。そもそも、二人とも、ナックルボーラーだったお父さんに、ナックルボールを教わった…ということを連想。
先に、「谷を渡る糸」に俳句を喩えたが、そのばあい、糸が地べたに落ちることは何かと言えば、それはことばが俳句になりそこねるということだろう。(*1) もう一つ言えば、越えられることが分っている谷をいくつ越えても、それはお楽しみとはいえない。詩のことばは、自分で作った谷を、自分で越えるのだ。
さて。
ごくごく淡い内容を、余計なことを言わず調子を上げも下げもせず、十七音を使い切って言い終わる。その平易にみえて際どい「谷」の道行きを、たどり直すことが、杏太郎の句を読む楽しみだ。作者が「俳句は呟き」と言うのなら、それは「つぶやき直す」ことでもあろう。(*2)
あらかじめ、たいしたことを言おうというのではなく、ちょっとのことを、うまく言い終わればおなぐさみ(曲芸)である。すると、そこから遡行して、何か「内容」(*3)めいたものが生じる、という方法。
ところで、ある人にとって「ただごと」が叱り言葉でありうるのは、世界は「ただごと」に満ちており、そこから「ただでないこと」を、拾い出すのが「詩」である、という考えが前提となっている。
杏太郎は主宰誌「魚座」に、猿が木から落ちることを、人は異常なこととして考えるが「『魚座』では、猿がするすると木に登ることの不思議さを、じっくりと考えて欲しい」と書いた。
しかし「猿が木に登る」と書くことは、その「不思議」を書くこととイコールではないはずだ。
もし「猿が木に登る」と書いて、書いたものが俳句になっていれば、それは「不思議」が書けたことになるのだろうか。
……。
案外、そうなのかもしれない。
「魚座」は少人数の結社ながら、会員が、総合誌の新人賞などで存在感をしめした。
(メモをもとに書いているので不確かなのだが)杏太郎は「魚座」誌上で、俳句をつくる以上、俳句の形をしているものが書けるようになったほうが楽しいはずだ、そのための指導は惜しまない、という意味のことを発言していた。たしかに「魚座」は、指導において成功した結社だったと、言えるだろう。
秋風に吹かれて箱を組み立てる 鴇田智哉
鉄棒をくぐれば虫の夜となりし 村田 篠
栗飯のときもごはんを少なめに 仁平 勝
秋の来てバラの名前の美容室 加藤あい沙
虫籠の傾いてゐる朝かな 茅根知子
新聞を畳む音ある秋の夜 鳥居三朗
今年の「魚座」11月号から、引いた。(*4) すでに注目されている作者ばかりだが、共有されているのは、独特の滑らかさだ。(*5) そしてもうひとつ(句ごとに立ち上がってくるものとはいえ、やはりそれぞれよく似た)かすかな「不思議」を共有している。
これらの句が、ことさらに不思議なことを言おうとしているのでは、もちろんない。
言っているのは、当り前の、ただそれだけのことなのだが、「それ」が俳句に「なっている」不思議が、「それ」じたいの不思議さを形象化しているのだ。(*6)
「変哲もないこと」を句にすることは、やはり少し変なことなので、その「変」さが「変哲もないこと」に色移りしている、とも言えるだろう。
個々の作家に対する敬意をすこしも割り引かずに言うのだが、今井杏太郎のメソッドは、とても有効で強力だったのだと思う。(*7)
波が来ていそぎんちやくのひらくなり 今井杏太郎
(この項おわり)
(*1)前記事で、作品の「ひねった」部分や定型との関係などが「谷」を形成する、と書いたのは間違いだった。たとえにこだわるなら、それらは糸に吹く「風」とでも言うべきか。それをたよりに言葉は「谷」を渡るのだが、吹きすぎてもうまくない。
(*2)結果、杏太郎の俳句は、口がきもちいい。かつて松本人志が、「みはいるしゅーまっはー」と言うとき口がきもちいい、と言ったのと、同じ意味で(違うかもしれない)。
(*3)このシリーズでは「内容」という言葉を、「記述」とその「作用」に先行するもの、くらいの意味で使っています。記述の「対象」と、内面的なもの、つまり「目的」とか「心」とか「美意識」をあわせて。なんか、作者が、ないふりをして、たっぷり持っていそうなものも、含まれている。
(*4)最新号や、句集の開けたページから引用するのは、例句探しの手を抜いているわけではなく、あるていどランダムに引いても、傾向が現れていると言いたい。
(*5)「て」や「ば」を忌避しない、句中の明確な切れをむしろ避ける、語彙の傾向として突出しがちな語を避ける、などが「魚座」の文体といえる。
(*6)ことばの「すがた」が、ことばの内容を形象化することを、以前のエントリでも書いた。(こちらとこちら)
(*7)ナックルボールで大リーグ通算318勝をあげたフィル・ニークロ投手は、弟もナックルボーラーで200勝投手。そもそも、二人とも、ナックルボーラーだったお父さんに、ナックルボールを教わった…ということを連想。
(承前)
今井杏太郎の方法の、パッと見てとれる特徴は、内容を最小限にすることだ。
俳句の少ない音数を満たすにも足らないほどの内容が、持続感を保ちつつ、十七音に引き延ばされて、そこに糸を張ったようなテンションが生まれる。
その十七音は、言い過ぎないことで佶屈さとは無縁であり、むしろ日常言語に近い滑らかさに執着する。そこに、また、定型との軽い緊張関係が生まれている。
さらに、その滑らかな語のつながりに、ほんの少量のへんなところがある。
たとえば、(1)であげた、もう一つの句、
珈琲を吹いて飲むとき日の盛り 杏太郎
この句のばあいは、「とき」の二文字が、聞かせどころだ。内容は「日の盛り」に「珈琲を吹いて飲む」というだけである。そこを「飲むとき」と言うことで、この句は、事象とその時間的背景の提示という書割り的構図から、身をよじるようにして逃れている。
谷底にかたまつてゐる桜かな 杏太郎
今月号の「魚座」で作者が紹介している旧作だが、この句も棒球のように見せて、「ゐる」のあたりが、かすかにおかしい。それらは、作者によって句が「ひねられた」痕跡であり、そのかすかな抵抗感は(定型との緊張関係とともに)言葉が読まれつつ越えてゆく「谷」を形成している。
(この項つづく)
今井杏太郎の方法の、パッと見てとれる特徴は、内容を最小限にすることだ。
俳句の少ない音数を満たすにも足らないほどの内容が、持続感を保ちつつ、十七音に引き延ばされて、そこに糸を張ったようなテンションが生まれる。
その十七音は、言い過ぎないことで佶屈さとは無縁であり、むしろ日常言語に近い滑らかさに執着する。そこに、また、定型との軽い緊張関係が生まれている。
さらに、その滑らかな語のつながりに、ほんの少量のへんなところがある。
たとえば、(1)であげた、もう一つの句、
珈琲を吹いて飲むとき日の盛り 杏太郎
この句のばあいは、「とき」の二文字が、聞かせどころだ。内容は「日の盛り」に「珈琲を吹いて飲む」というだけである。そこを「飲むとき」と言うことで、この句は、事象とその時間的背景の提示という書割り的構図から、身をよじるようにして逃れている。
谷底にかたまつてゐる桜かな 杏太郎
今月号の「魚座」で作者が紹介している旧作だが、この句も棒球のように見せて、「ゐる」のあたりが、かすかにおかしい。それらは、作者によって句が「ひねられた」痕跡であり、そのかすかな抵抗感は(定型との緊張関係とともに)言葉が読まれつつ越えてゆく「谷」を形成している。
(この項つづく)
俳句というものは、谷の上をひょろひょろと伸びていく糸のようだと、感じることがある。糸がうまく谷を渡りきれば拍手喝采。だが、その「谷」じたいが、「糸」の渡りと、同時に生成するものなのでややこしい。
つまり、言葉の線的な性質。言葉とは、耳に入ってくる音の順番・語の順番のことだから、意味をなしながら伸びてゆく、継時的な(それを空間的に例えれば)線的性質を持つ。
今井杏太郎の句を読むと、いつも、そこから、言葉の線的性質に対する意識を感じる。たとえば句集「海鳴り星」を適当に開けてみる。82pと83pの見開きには、こんな句がある。
のうぜんの花は遠くに見ゆるなり 今井杏太郎
珈琲を吹いて飲むとき日の盛り 〃
意味やイメージを取りだして言うことが、ことさらにむなしくなる句だ。内容を最小限にして、言葉をたらりたらりと耳に流し込んでいくその過程に、この作者は賭けている。
「のうぜん」の句。上五中七の谷間(*1)を越えてくる流れを、「花」で受けているところが、ナイスキャッチである。句またがりのようなそうでないような、意味的にはあってもなくてもいい「花」で受けて、糸は難なくつながって、
「は」で、話者を意識させ、
「遠くに」「見ゆる」「なり」と、ゆらゆら、ゆらいで終る。(*2)
思わず、そうですか、と言いそうになるが、杏太郎自身、俳句は「そうですか」で十分、と書いているので、それでいいのである。
(この項つづく)
*1 以前、「すーっと入る」という記事を書いてから、上五と中七のあいだに生じる呼吸の間を、言葉がどう越えていくかが気になっている。藤田湘子のいわゆる「上五で切る」俳句の基本形には、意味上の切れと呼吸の切れを一本化して、コトを単純化する、つまりは形を安定させる、という意味があるのではないか。
*2 「見ゆるなり」=(という、まあ、アタシの見えかたの、はなし)。花が遠いと言いながら、話者自身が、遠くに行ってしまったようだ。
つまり、言葉の線的な性質。言葉とは、耳に入ってくる音の順番・語の順番のことだから、意味をなしながら伸びてゆく、継時的な(それを空間的に例えれば)線的性質を持つ。
今井杏太郎の句を読むと、いつも、そこから、言葉の線的性質に対する意識を感じる。たとえば句集「海鳴り星」を適当に開けてみる。82pと83pの見開きには、こんな句がある。
のうぜんの花は遠くに見ゆるなり 今井杏太郎
珈琲を吹いて飲むとき日の盛り 〃
意味やイメージを取りだして言うことが、ことさらにむなしくなる句だ。内容を最小限にして、言葉をたらりたらりと耳に流し込んでいくその過程に、この作者は賭けている。
「のうぜん」の句。上五中七の谷間(*1)を越えてくる流れを、「花」で受けているところが、ナイスキャッチである。句またがりのようなそうでないような、意味的にはあってもなくてもいい「花」で受けて、糸は難なくつながって、
「は」で、話者を意識させ、
「遠くに」「見ゆる」「なり」と、ゆらゆら、ゆらいで終る。(*2)
思わず、そうですか、と言いそうになるが、杏太郎自身、俳句は「そうですか」で十分、と書いているので、それでいいのである。
(この項つづく)
*1 以前、「すーっと入る」という記事を書いてから、上五と中七のあいだに生じる呼吸の間を、言葉がどう越えていくかが気になっている。藤田湘子のいわゆる「上五で切る」俳句の基本形には、意味上の切れと呼吸の切れを一本化して、コトを単純化する、つまりは形を安定させる、という意味があるのではないか。
*2 「見ゆるなり」=(という、まあ、アタシの見えかたの、はなし)。花が遠いと言いながら、話者自身が、遠くに行ってしまったようだ。
「俳句世間」
二つ前のエントリで使った言葉。いっしゅん自分の頭からひねりでてきたような気がしたが、天気さんの用語でした。(たとえばこちら)
「俳壇」と「俳句大衆」を、まとめて客体化できる、便利な言葉です。(ま、基本的に、みなさん、同じような心性をもってらっしゃいますから)
え、「大衆」なんて言っていいのかって。
もちろん。この場合「大衆ども」でも、いいくらいですw。言い過ぎ。
二つ前のエントリで使った言葉。いっしゅん自分の頭からひねりでてきたような気がしたが、天気さんの用語でした。(たとえばこちら)
「俳壇」と「俳句大衆」を、まとめて客体化できる、便利な言葉です。(ま、基本的に、みなさん、同じような心性をもってらっしゃいますから)
え、「大衆」なんて言っていいのかって。
もちろん。この場合「大衆ども」でも、いいくらいですw。言い過ぎ。
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