胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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俳句と文学とサービス
とりあえず「文学」の定義から

じつは「文学」とかこういう巨大語の定義を考えるのが、趣味。

まず文学は、芸術の1ジャンルである。
芸術のうち、言語によるものを文学と呼ぶ。
芸術は、娯楽の1ジャンルである。
では、芸術という語は、他の娯楽からどう区別されて使用されているか。

芸術という語の使用例の「辺境」を考えてみます。(使用例の真ん中あたりを考えていても、語の領域は分らないので)

1.「大衆芸術」「応用芸術」という言い方が可能である。
ということは、芸術という語は、必ずしも、娯楽諸ジャンル間のヒエラルキーに支配された言い方ではない。

2.美男美女たるタレントの美貌は、世間一般の娯楽として供される場合にも「芸術」とは言われない。

3.娯楽以外の活動で、たとえば政治家に「芸術的な政治的手腕」というような賛辞が呈されることがある。

たとえば上の三つの文の「芸術」を「χ」に置き換えて、これらの用法が成り立つ「χ」を探す。そしてその「χ」が、通常の語の使用法と矛盾しなければ、とりあえず、定義ができたと言えるような気がします。

1.について。「大衆芸術」とは、歴史的に「娯楽」がハイカルチャーとローカルチャーに分離してしまった後の世代が、ローカルチャーにも五分の魂を期待して、そう呼ぶ言い方のような気がします。つまり、ここでいう芸術は、ローも持つべき「五分の魂」。

2.美貌を芸術と呼びうるとしたら、「自然が産んだ芸術作品」というような、擬人法的な表現になる。芸術という感じがするためには、「誰かがする」という主体性、行為性が必要なようです。前項にからめていえば、主体による志向性(ココロザシ)の問題と言っていいような気がする。

3.たとえば、政治家が、地べたをはいずりまわるような場当たり的現実対応的な手法も採りうるのに、あえてエレガントな最善手を志向し実現にいたれば、その手腕は芸術「的」と呼ばれる資格があるでしょう。また、娯楽のジャンルにおいても「地べたをはいずりまわるような場当たり的現実対応的な手法」をとる表現は、「芸術」と、呼びにくい。

ここで、一足飛びに結論を出してしまいます(趣味だから)。
自分は、芸術とは「最高のものを志向する、娯楽(の生産行為、または生産物)」であると考えます。
どうでしょう、この定義。とりあえず、悪くないような気がしているのですが。

さて。では俳句は文学か、という話。
文学=「最高のものを志向する」「言語による」「娯楽」という定義に照らせば、もちろん、俳句は文学たりえます。ただ、座の文学と呼ばれる俳句は、ずぶずぶの「その場=相対」志向を、起源にもつ。

「恥ずかしいことだけど、現代俳句は文学でありたいな、という感じがあります」という摂津幸彦の含羞は、そこを背景にでてくるんじゃないか。それを大っぴらに言うなら俳句である必要がない、でも忘れてしまったら、ろくなものにならない。

かっこよく言ってしまえば、垂直性をもって放たれると同時に、水平に手渡されるものが、俳句です。

渡す相手がよくなくっちゃあ、話にならないというわけで。俳句において、ことさらに歴史性への接続(師弟関係重視、季語重視etc)が意識されるのは、座に至高性への契機をもたせるためではないかという気がします。
また一方で、俳句は、その「相対」志向によって、同時代の芸術レースからは下りてしまっている。俳句は文学ではない、と石田波郷のような人が言ったのは、おそらく「野暮の相手をしていられるか」という啖呵で、これは、現代にも通用する話。ただ、その「相対」志向が、低回趣味、秘教化、退廃、というコースをたどりがちなことも、また。

自分が、俳句には、よりどころとしての「サービス精神」があると思うゆえんです。最高のものをこっそりと志向しつつ、どこまでも、その場にいる人に向けて供される。文学と座興の間を揺れ動く、俳句の矛盾をそしらぬ顔で止揚することが、金子兜太のいう「ふたりごころ/ひとりごころ」というものか、と。

なんか、ひじょうに当り前のことをベタに書いてしまいましたが。

参照:天気さんブログ「俳句と『文学』(1)(2)
たじまさんブログ「俳句という師~相対性俳句論(断片)」
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ちょっと刺激的だった
短歌ヴァーサス10号 荻原裕幸「定型をめぐって」より

「短歌を書く、短歌として書く、という行為は、何らかの意味で日常的な日本語に反しているわけだ。(略)現代詩は、短歌の定型のように、他者によって定められたスタイルをもってはいない。(略)詩であるためには、日常的な日本語で自由に書きながらも日常的な日本語に何らかの意味で反してゆくような文体を構築する必要が生じる。(略)短歌は、書こうとする漠然としたモチーフや書きたいという衝動を、五七五七七という定型にぶつけてゆくことによって、詩が生じる道筋というものを、ある程度までは見せてくれる。たとえはよくないが、入会後半年は会費が無料、みたいな感じのところがあるのだ。」

歌人でありプロデューサーでもある氏は、マスメディア関係の人から、くりかえし「短歌はなぜ若い人を惹きつけるのか」という質問をされて、こういうことを考えるようになったのだそうだ。

「一般論だと言えそうなことを、多少アングルを調整して書いているだけのことだが」「仮定に仮定を重ねて考えてゆくと」と、慎重に言葉を選びながら、荻原さん結局「とりあえず低いと思われる方のハードルを多くの人が跳んだということなのだろうか」と、ぶっちゃけてしまっている。(「どちらの世界もハードルは低くないのだが」「どこかのポイントで梃子だったはずの定型が、枷や錘や錨のようなものに変貌するのだ」と、プロ側の人としての押えを効かせつつ)

それは、俳句にも、もろに当てはまるコトだと思う。ほんと、ちょっと詩的幸運と努力で、その日のご馳走ていどには、いいのが書けてしまうのが、たぶん俳句というもので(あ、短歌は幸運では書けないのかな、どうだろ)。

ただ、何かを定型にぶつけるだけでできちゃったものも、やっぱり「詩」ではあるんだろうと思います。日々、ほんとに、ごろごろ生産されるんで、稀少性も商品性もないんですけどね。簡単にできるから詩じゃないということはない。

そんな世界だから、定型詩の作者は、必ずしも(詩人みたいに)スタアであったり英雄であったりしなくても、全然かまわないのだと思います。スタアを夢見て入ってくる人は、またちょっと考え方違うんでしょうけど。

「君こそスタアだ!(今なら半年間会費無料)」

ぷぷぷっ。


谷雄介「俳句抄」「からくれなゐ」を読む
谷雄介、落選展作品より「俳句抄」「からくれなゐ」

以前の作者の、にぎやかなスタイルの特徴は、語に対するフェティシズムにあったと思う。共感を呼びにくい、殺風景ないくつかの用語が、くりかえし使われる。好きなんだろう、それらの語が。曰く「国家」。曰く「雪崩」。曰く「鉄」。曰く「映画」。(あと多少湿っぽいところでは「海鼠」とか「母」とか「村」とか)。

しかし作者自身、それらの用語に託するものがあるのかというと、多分、あまりない。そのへんがかつての前衛派と違うナチュラル・ボーン・ポストモダニストなところだ(ありましたでしょ、前衛俳句的用語フェティシズム)。ただ、それらの語を繰り出してくる作者は、とても嬉しげだ。キーワードにウェイトがかかる作り方をしているので、そう見えるのだろう。その嬉しさには感情移入できる。

  初夢に中途半端な鉄ばかり    「正気の街」
  なすびよく油を吸うて課長の死  
  夕凪や映画の女つひに死す    「からくれなゐ」
  蠅叩きもはや属国かもしれぬ

ただ今年の「俳句抄」50句を読んで、作者は、もう違うところへ進み始めていると感じた。

  流氷の寄せてくるなり屏風裏  「俳句抄」(以下同)
  鳥雲に天井我を慈しむ
  春分の寝屋に柱の音すなり

冒頭の3句。キーワードをぶっつけるような作り方は、「正気の街」の延長だが、そのキーワードと見える語は「流氷」「屏風」「鳥雲」「天井」「春分」「寝屋」、つまり季語と日本家屋。もちろん、ここでは50句中のイントロとして建物つながりが意識されているわけだが、50句全体としても、季語の地位が向上し、それを迎え撃つ単語に、俳句として収まりやすい語(「食む」「暮らし」「こゑ」「返り見」etc)が選択されている。

季語と、俳句らしい用語とが、いろいろ位置関係を変えつつ照応し、イメージを形成している。これらの句は、「課長」や「映画」が「なすび」や「夕凪」を蹂躙しないがしろにする句群とは、だいぶ様子が違う。

  花烏賊や一湾といふ暮らしあり
  春空を鉄路は濡れてゐたりけり
  金屏風倒れ北方の春のごとし
  
俳句らしい用語と、俳句らしい巧みな言い方で、構成されたこれらの作品は、しかし、俳句らしさの陥りがちな予定調和からは、よく逃げおおせていると思う。それはイメージ自体の質によることはもちろんだが、それに加え、二つの彼らしい要素の働きも見逃せない。

一つは、過剰さ。「ゐたりけり」「倒れ北方の春のごとし」といった表現は、ひじょうに大げさであり、かえって、なにか大事なものを信じてないこの人は、という印象を与える。
もう一つは、ナンセンスなユーモア。「猿山に猿の尿意や明易し」とか「一本の柱を崇め夏休み」とか。これは、もう、そうせずにいられないのだと考えたほうが理解しやすいが、つねに片足を「非-本気」に置いていることを、メッセージしている。

以前の彼は、アンチ「俳句」的な語彙をことさらに導入することで、俳句らしさを異化しつつ俳句を書くという、その緊張を元手に書いていた。さいきんの彼は、あえて俳句らしい語彙と言い回しを使いながら、なお同等の「異化」を達成しようと実験をくりかえしている、と見える。

なぜそんな手間をかけるかといえば、それは、彼の含羞がそうさせるのだろう。(「含羞」は、天気さんが以前「屈託」と呼んだそれと同じものかもしれない)(この含羞は、ほんとうに彼の持ち物だという気がするのと同時に)(俳句らしさに対する含羞は、我々が、かなり広く共有する同時代性ではないかとも思う)。

彼が俳句の異化にしばしば失敗するのは、らしい言い方と、らしい用語で、本当にいいのが書けてしまう場合だ。

含羞がぶっとんでしまったような、いい句が、いくつか。

  春菊や日暮の父が摘んできし
  地震過ぎてこの輝きの夏の川
  吾のごとく君寝ねたまふ障子かな

たいへん俳句らしい、いい句がいくつか。

  壷焼に垂らす醤油の赤さかな
  噴水の向かうに近江ありにけり
  東の茫洋として鶏頭花

でも、僕がもっとも心動かされたのは、この句です。

  秋の川中部地方を流れけり

参考:天気さんブログ「谷ユースケ『正気の街』について」
またメモ
なかなか更新できないんで、困ったときのメモ頼み。
今後の更新予定。

「ユースケ『俳句抄』『からくれなゐ』を読む」
むずかしんですわ、これ。

「俳句と『文学』」
ひさしぶりに、てんきさんの話題にかすってみる。

あ、2個しかなかった。

今出てる『短歌ヴァーサス』10号に「『ただごと』という態度」というコラムを書きました。
短歌の読者の人に、「ただごと俳句」を紹介する、という内容です。この原稿で展開しきれなかった内容は、また、ゆっくりまとめたいと思ってます。

あ、もいっこ、思いついた。
「君は奥村晃作を知っているか」
短歌の王道は「ただごと短歌」なり、とされている歌人です。おもしろいですよ、この方は。
この人の歌のことを、考えていて「『魚座』の俳句」で書いた、言葉の「テンション」=張力というたとえを思いついたんでした。
佐藤文香「霧吹」「圧す力」を読む
佐藤文香の、芝不器男賞100句中、評者がこぞってとりあげた「青に触れ紫に触れ日記買ふ」を、自分はあまり買わない。このことだけでも、ぼくの目が曲がっていることは保証されているので、あまり当てにせずに聞いてほしいのだが、掲句は非常にふつうのことを、きれいな言い方で言っているだけのように見える。
言葉はすてきなんだけど、ワンダーが足りないというか。

もちろん「青に触れ」は対馬康子も櫂未知子も小澤實もほめてるんだから、方向はそっちでも間違っていないのだろう。でも、それだけが佐藤文香ではないことを、自分は知っている。

じゃ、お前の言うワンダーのある句ってどういうのよ、と言われれば、例えば「霧吹」50句中の、こういう句。

  霧吹の口淋しくて春の宵
  つちふるや造船所より犬出で来
  包まれて軽き春画よ年の内
  夕暮の長き若布を洗ひけり
  あけぼのの宝石類や花の雨
  越谷に火事つつましく終りけり
  晩春の焼く火と煮る火となり合ふ

「霧吹」の句。「口」が「淋し」を呼び、「淋し」が「春の宵」を呼んで、ほわーっとひとつの景色になりつつ、残るのは、霧吹の口を見ているばかばかしさ≒淋しさ。
「つちふるや」。「犬」を出したら「造船所」のがらんとした非人情な感じが、書けちゃったという、この偶然ぶりがワンダーである。
「包まれて」は、「春画」の軽さもすてきだが、「年の内」という納めかたが、頭おかしくてよい。心急かるるなか、春画を出したり包んだりしている、年末の空白気分。
「あけぼのの」は三要素を等分に並べる書きぶりで、春の雨に「あけぼの」が染みとおるようだ(『類や』て、君…という、つっこみを待たれている気もする)。

ようするに自分は、言葉が運動して、どこかあらぬところへ着地することを期待しているのだろう。

そう、着地。佐藤文香の句には、句が、句の中で着地点を探しているふうがある。この作者は、一句をあるところから書き始めたとして、言い終わりと考え終りが同時、という書き方をしているのではないか。
その着地点は、句によって、一語の措辞であったり(「水音のゆたかなる絵を片陰に」の「絵」、「蜜豆の緻密な黒を掬ひけり」の「緻密」)、季語であったり(「煮魚の目玉こぼるる四日かな」の「四日」)とうとつなイメージの展開であったり(「初夢に見る上代の魚市場」の「魚市場」)と、多様である。
「青に触れ」の句は、「日記買ふ」という行為にともなう一般的感情に着地しているのが、ぼくには物足りなかったのだろう。

ところで、うってかわって「圧す力」50句。

  学生は釦を拾ふ春の宵
  みつちりと合挽肉や春の海
  白玉へ匙で与へる圧す力
  水中り鉄の多くは長きまま
  後ろから来て藤棚を見上げたり
  新しき簾の芯を思ひけり
  銀行に海の来てゐる晩夏光
  我が歌にまづあなたとて鬼灯よ
  歯科の夜のいつも何かに水溢れ
  半夏生蟹蒲鉾の赤々と

力まかせ、ワンダーまかせの句が多く、ふつうの句が少ない。
「合挽肉」が「春の海」へ着地するとは、だれも思わない。「白玉」を圧して、それでそれが全部だとは、だれも思わない。
「我が歌に」。統辞がばらばらになりつつ、リズムも崩壊しつつ、なにか女の情念のパロディのような、暗黒日本舞踊というものが、もしあるのならそのような。

こんな暴れ気味のステップをふみながら、デタラメにならず、きっちりなんらかのイメージや感触を造形しえている。それは作者の無意識の貯金の多さというか、詩性の強さというようなものだろう。

ずいぶん個人的な嗜好で、間違った方向への展開を希望してしまっているかもしれないが、佐藤文香には、あらぬところへ行かずとも、たいへんケッコーな句がある。

  鉄棒の下のくぼみや明易し      「霧吹」
  密漁のごとくに濡れて冬の薔薇
  春の波人の近くに終るなり
  うづくまれば小さくなるなり花野原  「圧す力」
  明るさの重なる岸や蔦紅葉
  焼菓子と夕焼置かれある卓よ

ケッコーを極めて、ワンダーに至る句群だと思う。

  
  
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