胃のかたち
上田信治による俳句研究。
200703<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>200705
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
コラージュについて
ひとつ前の記事のコラージュは、「ダダ」で「バウハウス」だった、クルト・シュヴィッタースという人の作品で、1983年に池袋の西武美術館で(あったんですよ、むかし、そういうのが)やった、展覧会で見て、わー、となったもの。

そのころは、俳句にまったく興味がなかったのだが、この商業美術的フルーツのイラストの、喚起性の強さ(美味しそうさ)ったら、なんだろう。
写真や、リアルな静物画とは、別次元の力が、この林檎にはあるように思う。
(20年以上おぼえてるんだから、これくらい言わせて欲しい)

ひとつは、林檎が、言葉のように記号たり得ていること。
もうひとつは、このコラージュ全体の、平面構成が、完璧と言いたくなるほど、美しいこと。

これ、ふたつとも、林檎の情報量を増やして、直接、食欲を刺激するような要素ではない………、というところが、なんとも「俳句的」。

俳句もコラージュも、圧倒的に「貧しい」方法なわけで。

その貧しさの中で、季語、たとえば「林檎」を「林檎」とだけ言って、極限までイメージが広がるように使う。それは、読み手のもつ文脈を利用しつつ、その語を、構成のなかに「どう置くか」だけなんじゃあないか。

というのが、シュヴィッタースのコラージュ「5 ORE」が、俳句を思わせるところ。
スポンサーサイト
俳句に似たもの
Kurt Schwitters 『5 ORE』(1936)
430_3.jpg

この、林檎と葉っぱが「季語」。
「週刊俳句」準備号
こんなん、はじまりました。

週刊俳句 Weekly Haiku

http://weekly-haiku.blogspot.com/

毎週、日曜日更新です。
まずは創刊準備号。上田は「『俳句』4月号を読む」(先月発売)を書いています。
ただごと、この人の見解
『俳句』平成17年11月号の特集「平明こそ俳句の極意」加藤かな文「青空の光学」より

そこに描かれた「ただ事」に心動かされ、そこに用いられた「ただ言」をまぶしく感じるのはなぜだろう。「ただ事」と「ただ言」が絶妙のバランスで結びつくとき、俳句本来の性能が最も発揮される。とりあえず私たちの経験をそんな法則らしきものにまとめることはできると思う。しかしさらに、私たちの感動のより精緻なメカニズムをと求められたら、それが青空に似ているから、とでも答えておくのが最も誠実な態度ではないか。

ここでは、

・何でもないことを、ぴったりと言いあらわすことで、あらわになる言葉のはたらき。
・さらに、あらわになる、何でもないことの、何でもなさ。
・見えすぎなかんじ。

というようなことが、言われているようです。

   学校の丸ごと映る植田かな 加藤かな文
ただごとだ
北原白秋「かんぴょう」

1 かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる 
  あのそらこのそらかんぴょうはしろいよ  
  かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる 
  あのひもこのひも かんぴょうは ながいよ 

2 かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる 
  サラサラサラサラかんぴょうはゆれるよ  
  かんぴょう かんぴょう かんぴょうほしてる 
  だれだかだれだか かんぴょうを くぐるよーーーー

譜面


そして、試聴
「し」について
前も、ちょっと書きましたが、俳句における文語文法について。

佐佐木信綱は、『和歌入門』(明45)で、(ネットからの孫引きで恐縮ですが)

和歌は文学であるから、原則として文法を正しく守らねばならぬ。
と書くと同時に、

決して文法に拘泥してはいけない。
とも書いています。

今の文法の法則は、多くは平安朝時代の文章に存した掟である。文章が変遷すると共に、文法も変遷する。和歌は元より口語では無いから、大体に於いては古文の法則に倣ふべきであるが、併し時によれば、随分古文の法則を破つてもよい自由を有していることを忘れてはならぬ。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/intro/yomikata.html

さて。
現代俳句の文語文法「誤用」について、もっとも話題にのぼったのが、例の「し」の問題です。

「澤」2006/6月号 小澤實・西嶋あさ子対談より
(久保田万太郎の〈冬の灯のいきなりつきしあかるさよ〉に触れて)
實  最近「つきし」の「し」、これを文法の誤用だと説く方がいます。ただ、この「し」は芭蕉発句にもこのように用いられています。ちょっと前のできごとに過去の助動詞「き」の連体形「し」を使うことで、瞬間的なできごとを永遠のものにしようとしているのではないか、とも思います。

※芭蕉の「し」
  衰や歯に喰あてし海苔の砂
  夏の夜や崩れて明けし冷し物
  風色やしどろに植ゑし庭の秋

うちの辞書(旺文社『全訳・古語辞典』)を引いてみると、助動詞「き」の用法の二番目に、「平安末期以降の用法」として「完了・存続」「動作が完了して、その結果が持続している意を表す」とあります。箱のデザインが気に入って買った辞書なので、どこまでたよっていいものか分りませんが、そういえば、この用法については、片山由美子『俳句を読むということ』でも、言及されていました。

文法厳密派は、動作の結果が眼前に今あるものについては「回想」の「き」ではなく「完了」の助動詞「たり」を使うべき、と言います(片山さんは「筆者一人で判断を下すわけにはいかない」「実作者一人一人が真剣に考えてほしい」と言って、いちおう保留の立場)。

しかし、万太郎の句の「冬の灯」や「あかるさ」が、「つく」という動作の結果であると、どうして言えるのでしょうか。「冬の灯」が目の前にあろうが、なかろうが、「つく」を過去のこととして回想的に語ることは、作者の主観の自由です。万太郎の句は、まさに「いきなり」ついて、今、眼前には「あかるさ」しかないという内容。「つく」は、過去のある時点にあって、今はもうありません。それを「つきし」と言えば、通常の平安人の語感からは外れてしまうのかもしれませんが、かといって、そこに完了の意を加えることは、その「つく」を現在までひっぱってしまって、うまくない。

前掲の対談中の「『し』を使うことで、瞬間のできごとを永遠にする」とは、まだ、その場になまなましい、それこそ眼に残像が残っているくらいの事象を、ある過去の時点に「ピン留め」するように語る、ということなのではないか。

この「し」は、誤用とはいえないと思います。

  大空に又わき出でし小鳥かな   高浜虚子
  目貼してカーテン引きし書斉かな  〃

「わき出でし」は「いきなりつきし」と同じ感じで大賛成ですが、「カーテン引きし」は、どうなんだろう。この大先生の、適当さが眼にあまるというか、それをまた、みんなゆるーく踏襲するんで、反動として、もうちょっと文法しっかりせねば(古人に恥ずかしい)、と考える人がでてきたんでしょうね。




追記*「助動詞『キ』=目睹回想」というのは、1950年代に英文法学者・細江逸記が言いだして、通説になったものらしいです。ネットで見つけたこちらの論文(「古典語過去助動詞の研究史概観」井島正博/2001)の数頁をざっと読んだだけのにわか勉強ですが、その説には、疑問の余地がないわけではなく、ましてや、絶対的な法則というわけでは全然なさそうです(論文の筆者は、三省堂の古語辞典の編集委員の一人で、そういう人の「研究史概説」は、おおむねニュートラルな内容であろうと思われる)。
だいたい、文法学者の説に合わせて、言語運用の実態のほうを変えなきゃいけない、なんて言う人がいたら、それだけで眉に唾つけて聞かなければならないところ。俳人はみんな、人が良すぎます。
偶然について(つづき)
前の記事のつづきです。

俳句が、句中に因果関係があることや見え見えのイメージ操作を嫌うことと、語の「動かなさ」を志向することは、相反した欲求だと思う。しかし、そこをひょいと乗り越えるのでなければ、お楽しみは多くない。

櫂未知子『食の一句』より。

  遠雷や皿に寄り眼の目玉焼 さくたやすい

遠い雷鳴、食卓には〈目玉焼〉。ちょっと〈寄り眼〉にできちゃったと微苦笑している作者ーー要約すればただそれだけ。しかし、これこそ「俳句的」。(略)過剰な感情移入を望まず、その日に得た季語と眼前にあるものとを一句にする、この俳句ならではの面白さをわかって貰えるだろうか。


この「その日に得た季語」っていう言い方が、前項を書いているとき、念頭にありました。
まさに「偶然」。まるで、季語が、タロットかおみくじのようじゃないですか。

でも、おみくじって、けっこう当るんですよね。
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。