胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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推敲
前々回のエントリでとりあげた、小澤實さんの50句ですが、『俳句界』からひと月遅れの主宰誌『澤』で、前半31句が再録されています。
そして、そのうち、13句の形がかわっています。

句の手直しのあとを検証するということに、パパラッチ的な趣味の悪さを感じて、いままで遠慮していたのですが、
作者が、何を否とし何を可としたのか、とりわけ俳句のフォルムについて、どう感覚されているかを知りたい、
という誘惑に勝てず、句姿が変化している句を、比較のために並べてみました。

上が、『俳句界 2007/5月号』掲載、下が『澤 2007/6月号』掲載です。


   自動車教習所の踏切や秋の暮
   自動車教習所の踏切やあきのくれ

※「あきのくれ」とひらがなにすることで、景の抽象性が高まったというか、
教習所と、あきのくれが別次元のものであるとことが強調されたような気がします。
単に漢字を減らしただけかもしれませんが。

   週刊誌丸め握るや鳳仙花
   週刊誌丸め握りや鳳仙花

※『澤 2007/4月号』には〈秋桜の食み出し咲きや葱畑〉という句がありました。
「動詞の名詞化+や」。同じ号に〈おでん鍋はんぺん浮くや沈めても〉という句もあり、「動詞+や」がNGということではないようですが、
動きがテーマでないのなら、「名詞化」してしまったほうが、凝集力が強くなる、ということでしょうか。
〈握りぬ〉→〈握るや〉→〈握りや〉の順で、切れが強くなる、という印象もあります。〈ソーセージころがし焼きや花木槿〉

   やまめの身朱の点さだか煮たれども
   やまめの身朱の点しるし煮たれども

※この変化は、むずかしいです。「さだか」と「しるし」の、音韻をふくめてのニュアンスの違い、
「しるし」と活用語でうけたほうが、上五中七のつながりが密になる、といった印象はあるのですが。

   君も飲め柳散りある宗祇水
   柳散る宗祇水なり君も飲め

※「散る」がいっしゅん終止形に見えて三段切れっぽくなるので、凝集力という意味では、先型のほうが勝っている気もするのですが、
「散りある」という言い方の「動きのなさ」が解消されて、改稿後のかたちのほうが、「宗祇水」が美味しそうになっています。

   長汀の白はるかまで冬の暮
   長汀のはるかまで白冬のくれ

※切れの位置のあいまいさが(というほどのあいまいさではないのですが)解消されています。
また「はるかまで白」と、答えをうしろで言ってもらった方が、視線が遠くまでいくような気がします。
さらに言えば「くれ」というほうが遠くの方が暮れているかんじ?

   末枯や擦傷の佳き腕時計
   末枯や座するにはづし腕時計

※これは、別の句ですね。

   防弾チョッキ下にネクタイ巡査秋
   防弾チョッキに紺ネクタイや巡査秋

※「下に」が説明的だったのか、上五中七をしっかり固めて、その下できっちり切ることが必要だったのか。
どちらにしても上が切れたことで「巡査秋」の、ぶつかり具合がより、強くなった気がします。
…これは、前の形も、好きだったなあ。

   原稿の屑燃やしたる暖炉かな
   原稿の屑燃やしある暖炉かな(前書「伊丹に田辺聖子さんをたづぬ」)

※前書の状況なら、あとの形でしかありえないのですが、なんで『俳句界』では、前書つかなかったんだろ。

   人形の正面はるか見る寒さ
   人形の正面見やる寒さかな

※「はるか」は「長汀」の句もあるし、ということでしょうか。
前の形の不安定さが、好きだったのですが、でも「人形」に「はるか」で、詩っぽく甘くなることを、嫌気されたのかもしれません。

   鰭酒の炎淡しやほとんど無し
   鰭酒の炎あはしや消えである

※これは、甲乙つけがたい二形であると思われるのですが、どうでしょう。
〈ほとんど無し〉という言い方は、たしかに潔くないのかもしれませんが、〈消えである〉は〈炎あはし〉の繰り返しのようにも思われ。
〈消えである〉には、小さな幅の時間がしのびこんでいる面白さがありますが、〈ほとんど無し〉のぶったぎりのような認識も、そうとう面白いです。

   紅葉冷像の芯までとどきけり
   むすびたるくちびる勁し紅葉冷

※これも、別の句。

   冬服や岩大いなる河原行く
   冬服や河原岩々おほいなる

※「行く」が、不要の動詞という判断でしょうか、冬服は、ただ点景としていてくれればいいという。
いや、ともかく「河原岩々」という言い方は、なににも替えがたいほど面白いです。

   天蚕の繭をもぎたり枯の中
   枯木立天蚕の繭をもぎにけり

※別の句です。

以上です。
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雪我狂流「魚のやうに」を読む
「魚のやうに」10句(「週刊俳句第7号 2007/6/10」掲載

ある種の彫刻家、アルプとか、ポンポンとか、ブランクーシとかは、つるつる、ぷるぷるした、なめらかで、なまめかしい、口に入れてなめ回したくなるような、かたちばかり、作った。狂流さんの俳句からは、たとえば、そんな彫刻のような、ぷるるんとして、ぬるるんとする、ことばの、さわりごこちが入ってくる。

  対岸に人の落ちてる日永かな

ヒトノオチテル、と口語で言いつなぐところが「なめらか」で、ヒナガカナ、と留めるところが「ぷるん」。

  袖口は濡れて桜は葉となりぬ
  蝶の昼砂糖が水に溶けてゆく
  ひつぱれば伸びる輪ゴムの立夏かな

息をつがずに、いそがずに、空中にわっかを描くように、ふわふわわんと、投げられたようなことば。

  天麩羅にソースをかけた薄暑かな

ここで、はっとして、天麩羅にソース、わざとかな、人参の精進揚げなら、ソースありだな、とか思う。そして、紫陽花の茎はしなるだろうか、とか、サイダーの二人だったのだ、とか、十分に作者の企みにひっかかりつつ、シナリテイルヤウナ(ここは「ヤウナ」と読みたい)、フタリニナリシコオリカナ、と、また口の楽しみを味わって、

  湖は平らなところボート浮く

と、しずかな、しずかな(運動の予感を孕んでいるからしずかな)景で、トメ。

これら、ことばのどこにも、むりをかけない、なめらかな表現から、彫刻家の仕事、それも、空間にいきもの的形態(もともとポンポンは動物専門ですが)を「ひりだす」ような仕事を連想したのは、きっと、狂流さんの書くことばが、いきもののようにつるんと完結していて、「言った」というより、「生えた」ような姿をしているからでしょう。

  三月や子供はみんな象が好き (「句誌 月天」第八号/2005 所収)

HANS ARP Aquatique (Aquatic) 1953
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俳句界5月号 小澤實特別作品50句「巨人」
「俳句界」の先々月号に載った小澤實さんの50句。

  セイタカアワダチサウ秋草に入るや否や  

一句目。カタカナ表記される植物名、つまり俳句的情緒外の「名」なんですけど、「サウ」と旧かな表記になるところが、脳がカユイ。

  自動車教習所の踏切や秋の暮

二句目です。自動車教習所の踏切ですよ。鉄道抜き、自然抜き=情緒抜きの異界とも言える空間に「秋の暮」=俳句的情緒をしたたらせてみる。

  きんぴらの胡麻粒ふまへ精霊よ

四句目。立たせましたねえ、また、立ちにくそうなところに。この精霊は、ひょっとしたら精霊(ジン)というやつかもしれません。

  防弾チョッキ下にネクタイ巡査秋

十九句目。同じ作者の「酒飲んで椅子からころげ落ちて秋」の「秋」と比べてみると、椅子から落ちた酔客の心情と秋は、響きあっていたわけですが、巡査と秋は、ぷつんと切れて、でも同じ空間に「在る」。これが「寒」だったら、全体が包まれちゃうんですけど。巡査は秋と関わりなく、話者も、へんなことが気になっていて秋を忘れている。かたっぽの腕がながーいやじろべえみたいな、十五音と二音の拮抗。

  人形の正面はるか見る寒さ

二十一句目。「正面「はるか」「見る」と、言葉をつないだかたちが、前にすーっとのびた視線と平仄があっていて、寒い。

  鰭酒の炎淡しやほとんど無し

二十三句目。基本かっこいい写生なんですけど、「ほとんど無し」と口語まじりの言いつづめが、酔ってない。クールです。

  ピンクのうさぎ腹の鋼の箱冷ゆる
  立ち上がり巨人去りゆく枯野かな
  春の暮カニクヒザルもイソガニも

三十七句目。
四十四句目。
五十句目。

心なしか、「俳句」や「俳句研究」の作品よりも、あばれんぼうぶりが、際だっていたような気がします。

漫画家であり、漫画評論の書き手でもあるいしかわじゅんの創見に、本質的に新しい作品を生むことが二番手誌の役割だ、という指摘があります。「漫画アクション」から「花の応援団」が、「漫画サンデー」から「まんだら屋の良太」が、生まれたように。「俳句界」には、栄えあるB級雑誌をめざしてほしいな、と。
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