胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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切り貼り、続く
 表現は、しばしば、受け手による感情移入を力とする。
 俳句に感情移入があるとすれば、それは多くの場合「作者」の心と想定されるものに対してなされるが、それは、句の外にいる作者に対して、一句の正解を訊ねるような「弱い」感情移入である。

 いわゆる抒情的な句は、読者の「強い」感情移入を引き起こす。
 それは、一つにはリアルでベタな感情が句に伏流することによって、一つにはその感情が「美」に託されることによって可能になる。

 感情と「美」が結びつくと、なにか人を酔わせる成分が発生するらしい。
 というか「美」に酔って書く書きっぷりがまずあって、その書きっぷりが逆算的にリアルな感情を想定させる、といったほうが正確かもしれない。
 そして、感情を書くことは、句の「内部」に感情の主体としての「主人公」を書き込むことでもある。逆から言えば、その感情の主体として、一句の「主人公」が遡行的に想定される。〈春の鳶寄り別れては高みつつ 龍太〉も〈水ぐるまひかりやまずよ蕗の薹 夕爾〉も、そういうふうに書かれていると思う。そして、読者はその「主人公」に感情移入する。

(……)

 一方、氏の句に、ベタな感情やベタな美が書かれることは滅多にない。かわりに(というのもおかしいが)そこには、俳句の無名性に収まりきれない、「ヘンな人性」がある。

(……)

また、書いて使えなかったところを、カット&ペースト。
はっきり言って苦戦中ですが、もう、難所は越えましたよ。
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