胃のかたち
上田信治による俳句研究。
201708<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>201710
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
偶然について
「ただごと」のことから派生して、偶然について考えています。


   炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島  森澄雄


この「岐阜羽島」が、俳句における偶然である。
この岐阜羽島は動く。というか、俳句の地名は、全て動く。

というか、動かなくては、いけない。

一般的な、もの/ことを中味とする句の場合、そこに書かれるようなことは、たいがいどこででも起ることなので、もし、地名が動かないとすれば、それが「そこ」で起ったことを必然とする何かが、句の中に重ねて書かれていることになる。

その何かが、イメージの連鎖であれ、文学的歴史的蓄積であれ、わざわざ「動かないように」書かれたのだとしたら、それは結局つじつま合せであり、ずいぶんご苦労さんなことではないだろうか。

せっかく彼方から、「岐阜羽島」が到来しているというのにさ。

対して、それが、偶然によって「動くべく」書かれ、事後的に動かなくなったのだとしたら。あるいは、誰が見ても動くのに、作者にとっては、それが動きようもないのだとしたら。その「動かなさ」は、必然でありながら偶然であり、それは、この世界の実相にかなっているような気がする。
さて。

とすれば、すべての季語もまた、動かなくてはいけないのだろうか。たしかに、あえて動く季語を使う作り方もあると思う。


   空梅雨や向き合っているパイプ椅子  小倉喜郎
   
  
季語が動かないことを優先順位一位にしてしまうと、俳句は「言葉のはめっこ」(誰が言ってたんだっけか)に近いものになる。それよりは、動く季語のある句のほうが、よほど、このデタラメな世界にむかって開かれているのではないか。

でも、ほんとうの偶然(の季語)というものは、きっと、後期の碧梧桐的な退屈世界なのだろう。もちろん「パイプ椅子」の句が退屈だというのではなく、むしろ「岐阜羽島」と同様のパンクっぽさが好ましいのだが、この行き方の中で、なんでもありゆえの平板さに、どう抵抗しうるのか。

美術の歴史が「美」そのものではなく「美」の模型をつくることからはじまったのと同様に、まず人間は「偶然」ではなく「偶然」の模型をつくることで、満足しなければならないのかもしれない。


   明け方の蚊の飛んでゐる牡丹かな   岸本尚毅


この「明け方」が偶然である。あるいは「蚊」が、それとも「牡丹」が。純粋に審美的な書きようでありながら、バニラを効かせるようにして偶然の香りが加わり、この「牡丹」は、牡丹なのにほとんど「ただごと」である。じっさいの岸本氏がどれくらい早起きか、とかは、ともかくとして。

そして運がよければ、「美」の模型が「美」そのものになるように、「偶然」そのものが手に入る希望もあるわけで。


   古池や蛙とびこむ水の音    芭蕉
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。