田島さんちの、連続更新が、たいへん面白い。
田島さんの用語の「不可能性」については、いくつかのレベルがあると思うのですが、
1.言葉と対象(あるいは内容)の関係についての「不可能性」
「なぜ、俳句に「絶対的にわからない」ものが内在してしまうか、というと、「言葉」というものが、常に「言い過ぎてしまう」からなのである。」(2007/3/7)
「「不可能性」に対して「価値」がある、と合意したものだけが、一方で、その作者として表出し、もう一方で読者として表出する。」(2007/3/9)
田島さんの言語に対する不満(?)が、「言い足りない」のではなく、「言い過ぎてしまう」ことにあるというのが、おもしろいです。それは、たしかに日常言語には起っていない事態かも。(指示対象と言語の不一致は、当り前かつ解決不可能なので、問題になりようがない)
一方で、田島さんは、日常のことばが、意味の限定という機能をもつゆえに、多くの俳句は無意識に意味を価値としてしまう、というようなことを書かれていて。
ひょっとして、言い過ぎるとは、意味を限定することと重なってくるんでしょうか。
意味を限定することが、問題なのだとしたら、限定される前のものとは何だろう、と。
言葉からこぼれ落ちて、はじめて、そんなものがあったと気づくような、言葉の「外」の経験のようなものが、想定されているのかもしれません。
2.価値としての「不可能性」
「「俳句」の価値は、その「ことば」の意味ではなく、俳句そのものが内在する「不可能性」にある、ということなのです。」(2007/3/29)
「俳句における「絶対的にわからないもの」は、「価値」があるのか、ないのかすら定かでなく、けれども「価値がある」ということを「絶対的に受け入れた者」だけが、それに接近することができるような「何か」である。」(2007/3/7)
ここでは、あえて、秘教的な条件付けがなされているのだろうと思いますが、ふつうに分ろうとすると、「意味ではなく」ということが、ヒントになりそうです。
ことばには「意味ではない何か」というものが、あるはずなんだという。
ここには読者と作者の「合意」が、不可能を可能にする、つまり意味ではない何かを可能にするから、俳句は価値を持ちうるんだという主張があると思うんだけど。
田島さんは、一方で、それを「可能」なことにしてしまうことには、あまり意味がないのだ的なことを書かれている(なぜなら「再現可能」な「不可能性」は、もはや「不可能性」ではないからである。)。
となると、これは、毎回、未生の価値に賭ける、という心構え論なのかとも思われ。
田島さんの一連の論考から、かってに、自分に引きつけてテーマを取りだすと、
・「言い過ぎない」貧しい言葉の可能性。
・「書いていない」ことが書いてある、という同意。
というあたりが、気になります。田島さんの考えと、ぜんぜんかすってない可能性もありますが。
(ここで、俳句の不可能性の価値が、顕現している作例がほしい気がするんですが、そういうのって、ちょっと違うんでしょうか)
あ! ちょっと分ったかも。
田島さんには、日常言語の限界を超えたいというテーマが先にあって、その限界の先にあるものを、ぜんぶ「不可能性」と呼んでいるのでは、ないでしょうか。
いや、日常言語の限界というより「ことば」一般の限界といったほうが、いいのかな。詩語と日常語って、区別つかないですもんね。(タダゴティストとしては、俳句と日常の言語活動の区別はつくけど、そこで使われているのは同じ言葉だという気がしている)
3/29日付の記事のラスト近く「「この句には、意味という価値はないんだよ」という「意味の意味」をメッセージとして付加する、いわゆるメタメッセージ付きの句」が現われた、というあたり。
「お、こっちの守備範囲に話が来るのかな」と、たいへん楽しみにしています。
刮目して待て。
田島さんの用語の「不可能性」については、いくつかのレベルがあると思うのですが、
1.言葉と対象(あるいは内容)の関係についての「不可能性」
「なぜ、俳句に「絶対的にわからない」ものが内在してしまうか、というと、「言葉」というものが、常に「言い過ぎてしまう」からなのである。」(2007/3/7)
「「不可能性」に対して「価値」がある、と合意したものだけが、一方で、その作者として表出し、もう一方で読者として表出する。」(2007/3/9)
田島さんの言語に対する不満(?)が、「言い足りない」のではなく、「言い過ぎてしまう」ことにあるというのが、おもしろいです。それは、たしかに日常言語には起っていない事態かも。(指示対象と言語の不一致は、当り前かつ解決不可能なので、問題になりようがない)
一方で、田島さんは、日常のことばが、意味の限定という機能をもつゆえに、多くの俳句は無意識に意味を価値としてしまう、というようなことを書かれていて。
ひょっとして、言い過ぎるとは、意味を限定することと重なってくるんでしょうか。
意味を限定することが、問題なのだとしたら、限定される前のものとは何だろう、と。
言葉からこぼれ落ちて、はじめて、そんなものがあったと気づくような、言葉の「外」の経験のようなものが、想定されているのかもしれません。
2.価値としての「不可能性」
「「俳句」の価値は、その「ことば」の意味ではなく、俳句そのものが内在する「不可能性」にある、ということなのです。」(2007/3/29)
「俳句における「絶対的にわからないもの」は、「価値」があるのか、ないのかすら定かでなく、けれども「価値がある」ということを「絶対的に受け入れた者」だけが、それに接近することができるような「何か」である。」(2007/3/7)
ここでは、あえて、秘教的な条件付けがなされているのだろうと思いますが、ふつうに分ろうとすると、「意味ではなく」ということが、ヒントになりそうです。
ことばには「意味ではない何か」というものが、あるはずなんだという。
ここには読者と作者の「合意」が、不可能を可能にする、つまり意味ではない何かを可能にするから、俳句は価値を持ちうるんだという主張があると思うんだけど。
田島さんは、一方で、それを「可能」なことにしてしまうことには、あまり意味がないのだ的なことを書かれている(なぜなら「再現可能」な「不可能性」は、もはや「不可能性」ではないからである。)。
となると、これは、毎回、未生の価値に賭ける、という心構え論なのかとも思われ。
田島さんの一連の論考から、かってに、自分に引きつけてテーマを取りだすと、
・「言い過ぎない」貧しい言葉の可能性。
・「書いていない」ことが書いてある、という同意。
というあたりが、気になります。田島さんの考えと、ぜんぜんかすってない可能性もありますが。
(ここで、俳句の不可能性の価値が、顕現している作例がほしい気がするんですが、そういうのって、ちょっと違うんでしょうか)
あ! ちょっと分ったかも。
田島さんには、日常言語の限界を超えたいというテーマが先にあって、その限界の先にあるものを、ぜんぶ「不可能性」と呼んでいるのでは、ないでしょうか。
いや、日常言語の限界というより「ことば」一般の限界といったほうが、いいのかな。詩語と日常語って、区別つかないですもんね。(タダゴティストとしては、俳句と日常の言語活動の区別はつくけど、そこで使われているのは同じ言葉だという気がしている)
3/29日付の記事のラスト近く「「この句には、意味という価値はないんだよ」という「意味の意味」をメッセージとして付加する、いわゆるメタメッセージ付きの句」が現われた、というあたり。
「お、こっちの守備範囲に話が来るのかな」と、たいへん楽しみにしています。
刮目して待て。
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