「魚のやうに」10句(「週刊俳句第7号 2007/6/10」掲載)
ある種の彫刻家、アルプとか、ポンポンとか、ブランクーシとかは、つるつる、ぷるぷるした、なめらかで、なまめかしい、口に入れてなめ回したくなるような、かたちばかり、作った。狂流さんの俳句からは、たとえば、そんな彫刻のような、ぷるるんとして、ぬるるんとする、ことばの、さわりごこちが入ってくる。
対岸に人の落ちてる日永かな
ヒトノオチテル、と口語で言いつなぐところが「なめらか」で、ヒナガカナ、と留めるところが「ぷるん」。
袖口は濡れて桜は葉となりぬ
蝶の昼砂糖が水に溶けてゆく
ひつぱれば伸びる輪ゴムの立夏かな
息をつがずに、いそがずに、空中にわっかを描くように、ふわふわわんと、投げられたようなことば。
天麩羅にソースをかけた薄暑かな
ここで、はっとして、天麩羅にソース、わざとかな、人参の精進揚げなら、ソースありだな、とか思う。そして、紫陽花の茎はしなるだろうか、とか、サイダーの二人だったのだ、とか、十分に作者の企みにひっかかりつつ、シナリテイルヤウナ(ここは「ヤウナ」と読みたい)、フタリニナリシコオリカナ、と、また口の楽しみを味わって、
湖は平らなところボート浮く
と、しずかな、しずかな(運動の予感を孕んでいるからしずかな)景で、トメ。
これら、ことばのどこにも、むりをかけない、なめらかな表現から、彫刻家の仕事、それも、空間にいきもの的形態(もともとポンポンは動物専門ですが)を「ひりだす」ような仕事を連想したのは、きっと、狂流さんの書くことばが、いきもののようにつるんと完結していて、「言った」というより、「生えた」ような姿をしているからでしょう。
三月や子供はみんな象が好き (「句誌 月天」第八号/2005 所収)
HANS ARP Aquatique (Aquatic) 1953

ある種の彫刻家、アルプとか、ポンポンとか、ブランクーシとかは、つるつる、ぷるぷるした、なめらかで、なまめかしい、口に入れてなめ回したくなるような、かたちばかり、作った。狂流さんの俳句からは、たとえば、そんな彫刻のような、ぷるるんとして、ぬるるんとする、ことばの、さわりごこちが入ってくる。
対岸に人の落ちてる日永かな
ヒトノオチテル、と口語で言いつなぐところが「なめらか」で、ヒナガカナ、と留めるところが「ぷるん」。
袖口は濡れて桜は葉となりぬ
蝶の昼砂糖が水に溶けてゆく
ひつぱれば伸びる輪ゴムの立夏かな
息をつがずに、いそがずに、空中にわっかを描くように、ふわふわわんと、投げられたようなことば。
天麩羅にソースをかけた薄暑かな
ここで、はっとして、天麩羅にソース、わざとかな、人参の精進揚げなら、ソースありだな、とか思う。そして、紫陽花の茎はしなるだろうか、とか、サイダーの二人だったのだ、とか、十分に作者の企みにひっかかりつつ、シナリテイルヤウナ(ここは「ヤウナ」と読みたい)、フタリニナリシコオリカナ、と、また口の楽しみを味わって、
湖は平らなところボート浮く
と、しずかな、しずかな(運動の予感を孕んでいるからしずかな)景で、トメ。
これら、ことばのどこにも、むりをかけない、なめらかな表現から、彫刻家の仕事、それも、空間にいきもの的形態(もともとポンポンは動物専門ですが)を「ひりだす」ような仕事を連想したのは、きっと、狂流さんの書くことばが、いきもののようにつるんと完結していて、「言った」というより、「生えた」ような姿をしているからでしょう。
三月や子供はみんな象が好き (「句誌 月天」第八号/2005 所収)
HANS ARP Aquatique (Aquatic) 1953

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