かたつむり甲斐も信濃も雨の中 飯田龍太
この句が、龍太で一番好きだと言ったら、
さる俳人に「雨で、かたつむりで?」と言われた。(つきすぎでしょうの意)
......。
むしろ「かたつむり」と「雨」は一体であり、
そのなかに「甲斐」と「信濃」という抽象が浮かんでいる。
これは、そういう句なのではないかと思った。
「かたつむり」の位置に別のもの、たとえば植物などがあったとしたら、
まず句中にその植物を見ている視点が生まれ、
風景全体が、その視点から見た構図におさまってしまう。
つまり絵葉書めく。
この句によって得られる経験とは、
「かたつむり」と一体化し「雨」と一体化することで、
小(身体)→中(概念)→大( )
と、ぐわわわわーと空間がひろがっていく感覚である。
その同心円状の小宇宙は、まさに
「雨」の真ん真ん中に「かたつむり」がいることで生まれている。
と、これだけ考えて(すでに感じていたことを自分に説明して)、
「つきすぎ」ていて、よいのだと納得した次第。
ふー。
この句が、龍太で一番好きだと言ったら、
さる俳人に「雨で、かたつむりで?」と言われた。(つきすぎでしょうの意)
......。
むしろ「かたつむり」と「雨」は一体であり、
そのなかに「甲斐」と「信濃」という抽象が浮かんでいる。
これは、そういう句なのではないかと思った。
「かたつむり」の位置に別のもの、たとえば植物などがあったとしたら、
まず句中にその植物を見ている視点が生まれ、
風景全体が、その視点から見た構図におさまってしまう。
つまり絵葉書めく。
この句によって得られる経験とは、
「かたつむり」と一体化し「雨」と一体化することで、
小(身体)→中(概念)→大( )
と、ぐわわわわーと空間がひろがっていく感覚である。
その同心円状の小宇宙は、まさに
「雨」の真ん真ん中に「かたつむり」がいることで生まれている。
と、これだけ考えて(すでに感じていたことを自分に説明して)、
「つきすぎ」ていて、よいのだと納得した次第。
ふー。
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