胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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田中裕明の「古典」ふう
田中裕明には、虚構性の強い「古典」ふうの句が何句かあり、いずれも代表作として名高い。


 夕東風につれだちてくる佛師達   『花間一壺』
 たはぶれに美僧をつれて雪解野は  『櫻姫譚』


蕪村を連想させるこれらの句に先行するものとして、第一句集より、やはり初期の代表作とされる、こんな句をあげてみたい。


 大学も葵祭のきのふけふ   『山信』


この句は、ぱっと見「フィクション俳句」ではないのだが。

「作者よりも二十年ほど前の学生であった私の実感からすると、葵祭がこのように大学の雰囲気に影響したことはなかったと思う。」(清水哲男→「増殖する俳句歳時記」)。

ということなので、この「大学」は、平安時代の貴族の子弟が学ぶ「大学寮」や「大学別曹」のこととして読んでもいいのかもしれない。それなら、葵祭の話で持ちきりでもおかしくないから。

しかし、とはいえ。
句の現場はいまを離れていないと考えたほうが、読みが豊かになるような気もする。

つまり作者が「大学も」と書きだしたとき、意識の中で、現代の京都大学と、平安時代の「大学」が、そして、今と昔の「きのふけふ」が、重なりあった、と。


 京へつくまでに暮れけりあやめぐさ 『櫻姫譚』


徒歩が移動手段であった時代の、旅の感慨というふうに、まず読める。

しかし、森賀まりさんによって「水涸れて天才少女とはかなし」が書かれたときのエピソードが、有名になってみると。夕刻、車か電車で「京都」に向っている作者が「京へつくまでに暮れけり…か…季語、何や」なんて、つぶやいて出来た句であるとしか思えない。

これらの句に使われているひとつひとつの言葉に、昔と今が、二重露光のように重なりあって見える。

裕明自身が、そんな目を持って生きた人だった……と書いたら、それはきれいにまとめすぎかもしれないが、もともと古典の世界に遊ぶということが、今を生きる「とまどい」に裏打ちされていないはずはないのだ。






ところで、上の「水涸れて」の、リンク先の読売の記事の気になったところ。
>生死の左右される病気を患ったとき、俳人はなぜ「俳句の神に愛されて」と詠んだのか。

「神に愛された者は夭折する」って、ごくふつうに言う成句ですよね?
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2008/08/03(日) 12:34:11 | WEBの情報缶!
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