胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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季語は、やっぱりルール
季語は、やっぱりルールだと思うんだけどな。

過去記事
季語と複雑 
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ここのコメント欄 
「『俳句年鑑2009年版』を読む」

『週刊俳句』に『豈』から転載された小野裕三さんの記事のことなんですけどね。

しかし、少なくとも僕個人の所感としては、結局俳句は「季語」「定型」がなくては成立しない。これは最近あちらこちらで書いているのだが、季語はルールではない、というのが僕の主張である。その趣旨は、ルールとして墨守すべきものでもないが、逆にルールとして反発すべきものでもないという意味だ。

季語は、俳句にとって現時点で考えうる最大かつ最良の詩嚢であって、それを単なるルールと捉えてしまうとかえってその本質を見失う。そして季語がそのようなものである以上、それを「必要ない」と考えるのはあまりにも実際的ではない。また定型についても、自由律の良さは定型があってこそ発揮されるという意味で、これも俳句にとって必要なものだ。(小野裕三「はっきり言いますが、世の中的には「前衛」は死語です。」週刊俳句95号


でも、小野さんの言う「詩嚢」であることと、「ルール」であることって、両立しないだろうか。

ふつうに考えたら、ぜんぜん両立する。「ルール」であることは、俳句総体を外側から見る視点から、「詩嚢」であることは、これから新しい一句を書く作者としての視点から、出てくる言い方で、位相が異なるものの見方が、両立しない理由って、あまり思いつかない。

小野さんの言う「墨守」も「反発」も、書く人間の態度、というか感情の問題でしょう。たぶん、ご自身は書くときに、どうしても「ルールとは思えない」っていうことなんでしょうね。

自分は、季語が「詩嚢」であっても、何であってもかまわないんですが、逆に、季語を「ルールではない」と思うことは出来ないんです。

季語は、歴史的偶然によって形成されたものだから。

たとえば、ネクタイというのは、歴史的にああいう形になっているものでしょう。現時点でのネクタイの有用性とか、存在の必然性を言うことは自由ですけど、あのひし形に歴史的偶然以外の根拠を見出すことは、単純に、錯誤か欺瞞だと思うんだよなあ。

それは、ネクタイを外側から見る立場でも、自分がしめる立場でも同じことです。

つまり、ただ昔から決まっている、と。もちろん、締めるも締めないも自由です。

ところで、「季語と複雑」で「季語という独立部分があることは、俳句という「文」の統辞を、ひどく複雑にする」と書きましたけど、いま考えると、季語が俳句を複雑にするというよりは、読者の「読み」が複雑になっているんですね。

そのリテラシーの蓄積こそが、俳句の正体なんですよ、きっと。
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