胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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禅っぽいものとしての俳句
この世に起こることには何の理由もない、と思わせる句。

   額縁をもとめしかへり火事にあふ  渡辺白泉

人が「今日、火事を見てね……」と話し始める時、その人は火事の話をしようとしている。では「今日、額縁を買ってね……火事を見た」と言う人は、いったい何を語ろうとしているのか。

   鯊を釣るうしろ原つぱ犬駆けり   富安風生

映像的なこの句。画面中央にしばらく釣り人が映っている。と、後ろを犬が通り過ぎる。カメラは、犬を見に行ってしまう。おわり。

   汽車が走る山火事           尾崎放哉
   それから牛に会つたばかりの雪になり  荻原井泉水

これは、おそらく文体の問題である。

切れば、取り合わせになる。その場合、二物は(作者が意図せずとも)審美的な関係に置かれるというのが、俳句の読みのルールである。対して、掲出句はいずれも、因果関係のない事柄を、切らずにつないで美や物語から身を離す。残るのは、この世のことは「ただ」起こるという、ざらりとした感触。それは、自由律かそれに近い文体がもたらすものだ。

こういう句は「禅」っぽいのかも、しれない。

   昼だけある茶屋で客がうたつてる  放哉
   雨の落椿のはだしで酒屋がくる   井泉水

おもしろい。大変おもしろい。しかし、こういうふうに世界を感受することは、人として大丈夫なのだろうか。
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