胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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時間の俳句2「真ん中分けの二人」
真ん中で二つに割れているような句。

   竹馬を下りきて海苔巻をつまむ    波多野爽波
   かき氷食ひ桔梗の花を見る      田中裕明

目的語+名詞が、ほぼ同じウエイトで二つ配されている、この不安定さ。通常の二句一章の、七三分け的(または黄金比的)に安定した構図を裏切り、あえて真ん中分けを選択する師弟。なにを考えているのか。

真ん中分けは、一句を構成するAB二要素の、どちらにも中心的地位を与えない構文である。作者は読者に命じている。「AとB」どちらでもなく、「と」を見よ、と。

ねらいの一つは時間だろう。

爽波の句。見よと指示されているのは「竹馬」と「海苔巻」のあいだの空間と時間。動詞を三つ使って、空間(たぶん庭先と縁側のあいだ)に時間を二重写しにしている。キャンバスに時間を描きこもうとした、未来派の絵画のようだ。

裕明の句。「かき氷」から「桔梗」まで、移動する視線と心。かき氷を食べていた心が、ふと桔梗の花を見る。「ふと」という極小の時間が、それとは名指されず、二句一章の二句の間にはさまっている。

そして、AとBの間には、読みとれるものがもう一つ。

竹馬に夢中かと思うと海苔巻を食べに来る子供の、動物のような理由のなさ。(かき氷おいしい……桔梗きれいだな)という自分の、ギャルのような理由のなさ。中心のない構文が、美しい「無心」を掬いとっている。

どうして、こんなことが可能だったのだろう。

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コメント
この記事へのコメント
>かき氷食ひ桔梗の花を見る      田中裕明
>濯ぎものたまりて山に毛蟲満つ    裕明

好きです。謙虚なかんじで。自然な流れです。

爽波さんのはエゴだな(エゴが悪いわけじゃないが)。
2006/01/23(月) 10:30:36 | URL | あやか #NpCq7FQQ[ 編集]
>爽波さんの 

リズムが強引だよな。句またがりで「変化球」ですよという、サインを発しているのだと思うのだが。
2006/01/23(月) 12:42:55 | URL | 信治 #tl9rY.2.[ 編集]
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