胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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俳句を読む人
俳句で、もっともおどろくべきことは、あんなものが、読むと、分るということだ。
前回のエントリで書いた高柳重信の「驚倒」は、まさに、この「おどろく」だろう。お前ら、なんで分かるんだよ、という。

俳句を「読む」と「分る」。
カッコに入れて強調してみたが、意味がなかった。

このおどろきは、俳句の生成の現場にすでにある。

作者は、みずからの「仮想的」読者となり、できた俳句を読み、「分る」ので、おどろく(*1)(*2)。
そのとき、その句を書いているのは「他者」ってやつかもしれない。
そして読者は、作者と共におどろくことによって「分る」。

読者に「あらかじめ分かられて」しまっている句は、「俗情との結託」に堕するあやうさをはらむ。それでは、自己と他者が似すぎだろう。分かってるものどうしの目くばせは、俳句という遊びの、興趣のひとつではあるが(「どうですか、この季語」「おおお、キてますなあ」)。

では、なぜ「分る」ことが、おどろきであるようなものが、かくもたやすく「書けて」しまうのか。
それは「俳句」だから。「読む」ことのうちに「歴史性」がふくまれているから。型が、かってに書くから。型が、かってに読むから。べつに「俳句形式の魔」とかいう話ではなく、もっと、ありふれた。

*1.三橋敏雄「恒信風」インタビュー発言「ほとんど普段感動なんかしないから、なんとか感動したいと。そのために俳句で、自分がなんとなく感知しているなにかの言葉の眠っている意味を発見してぶつけると、あっ、いけたなと、そこで感動するんでね(略)作品になってから自分の句に感動する。感動できなきゃその句はだめだと思いますよ」

*2.もちろん「仮想的読者」として読む行為は、「書く」行為の中に含まれているわけですが、そこは小さくタイムスリップを、繰り返してますね、書いてる間中。

たじまさんのブログの「相対性俳句論」に、わりと伝統的な立場から、なんとなく呼応しているつもり。
http://moon.ap.teacup.com/tajima/203.html
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仮に時間が直線的に流れているとすると、「解る」ということは、大きくふたつに分類することができる。ひとつは、過去の経験との符号による「解る」(〓)。もうひとつは、まだ経験したことのない未来が、「いま、ここに」現れたときに、「何故だか解らない」けれども「解る
2006/09/15(金) 02:47:16 | たじま屋のぶろぐ
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