胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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美意識……うう
前回の記事中の「作者と読者が、作品をはさんで、それぞれのコードを照らし合うようにするのが、俳句を書く/読むということなんじゃあないか。」というところ。どうも、うまく言えていない気がしていた。そのすぐ前の文で、俳句を読むためのコードとは「季語とか切れとか配合とか先行作品」であるとした。実は、そこに加えようとして、止めた言葉があって。

それは「美意識」というやつです。

ちょっと恥ずかしいから言わずにおこう…と思ってしまったのだが、ここは、言っておかなければいけなかった。「コードの照し合い」という言い方は「俳句とお茶は似ている」というアイデアといっしょに出てきたものなので、ここで言う「コード」は、やっぱり「美意識」。
「美意識」の定義は「何を『佳きもの』とするかについての、先行する価値判断の束」くらいで、いいです。昔で言えば、ワビサビシオリのような。

自分が思う「俳句とお茶の相似性」の根本は、「ワカルワカルということを喜びとする遊び」だということなのだが。(訳のワカラナイことを、ワカラセル遊びと言ってもいい)

遊びのレベルが、すでにあるコードの確認=答え合せなら、俳句もお茶もお稽古事である。美意識の書換えへの挑戦がなければ、つまり、きわどいことをやって、なおかつ分ってもらうのでなければ、本気になる値打ちがない。俳句がイカシテイルのは、一回性を本義とするお茶と違って、字で残るものだから、先人の試みの繰り返しに意味がなく、毎回、全員、利休たり織部たることを、求められているということだ。

「文台引き下ろせば反故」とは、書かれた作物に価値がないということではなく、又あらためて、文台の上で、美意識が問われることだけが、このお遊びの「実」だということだろうし。

小澤實師が「句会に出ない俳人」に対する強い疑問を口にしたことは、ひたすら自分のために茶を点てる(そして時々それをテレビに中継させる)茶人の奇妙さに置き換えてみると、分る気がする。

と、ここまで書いて来て、自分の中に、鬱勃として「遊びとしての俳句」に飽き足らない気持ちがわいてくるのは(!)

人に(前提として)先立たれるというのは、気に入らない
人に(あらかじめ)分られるのは、気に入らない

という若者らしい気持ちだ。ははは、なんだ、自分から言い出しといて!
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