胃のかたち
上田信治による俳句研究。
201708<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>201710
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
3項関係としての俳句
俳句は、昆虫と同じように3つの部分に分節しているので、内容もおよそ3つの要素からなる。「遠山に日の当りたる枯野かな」ならば、「遠山」と「日」と「枯野」。

しかし、人間は、多項関係を認識することが苦手である。というか、できない(私見です)。すべての多項関係は、1対1関係にくくりなおして認識される。ために、俳句は3つの要素が1:2または2:1となるように書かれることが多い。
ところが。
   
    裏富士や月夜の空を黄金虫  飯田龍太 

同じ龍太の「紺絣春月重く出でしかな」であれば3項は、{(紺絣):(春月・重)}と、くくり得る。対して、掲句。「裏富士」と「月」と「黄金虫」の3者は、どれが主でどれが従ということがない。上五の後ろに切れはある。しかし、その切れを飛び越えて、富士や月や虫が乱れ交わるように関係する。多項関係で巴構造。これは珍しい。

さらに言えば、じつは、「紺絣」と「重く」の間にも何かがあるような気がする。「月」のあたま越しに、もやもやとしたあやしい関係が。それが、この高名な句のムードの発生源なのではないか。また、虚子の句にも「日の当りたる」の連体形が、山のみならず「枯野」をも明るくしてしまうという仕掛けがある。

図式にくくりきれない運動をはらむ句。ひょっとして、どこかから複雑さを呼びこむということが、表現全般の急所なのかもしれない。

(参考・『展開する俳句』松浦敬親 北宋社)


追記:
「紺絣」の句は語順がポイントかもしれない。{(紺絣:春月):(重)}とも{((紺絣・春):(春・月)):(重)}とも読め、あきれるほどの重層性がある。
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
頑張って御読みくださってありがとう♪
「項」だけではなく、「変容」ということにも言及なさる日を楽しみにしています。
2005/12/10(土) 16:17:29 | URL | 百花  #-[ 編集]
最初のところの、

俳句の内容は「およそ3つの要素からなる。」
しかし、「人間は、多項関係を認識することが苦手である。」
よって、「すべての多項関係は、1対1関係にくくりなおして認識される。」

という論理がスマートでいいなあと思いました。
もちろん、それ以後の例示も含めて凡そ納得です。

龍太の「裏富士や」みたいな句を見てると、日本画のような景の捉えかただなという気がします。これが失敗すると、イメージが散漫になって、あまり面白くなくなるのではないかと思います。

銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
湾曲し火傷し爆心地のマラソン

なんていう兜太の句を見てると、信治さんが初めに提示した俳句における多項関係をはずれると、句が先鋭化して見えるということは言えるのではないでしょうか。
詳細は検証していませんが、前衛俳句と呼ばれた句群の中には、4つ5つの項で創作されたものが多いのではないか。というより、信治さんの指摘した構造から逸脱する行為が「前衛」と呼ばれたのであり、また前衛的と理解されたのではないでしょうか。

いずれにしても、興味深い指摘であります。
2005/12/20(火) 12:57:18 | URL | ユースケ #v14okzU2[ 編集]
日本画のような景
近代以前のわりと非中心的な日本画ね、なるほど。
 
非中心といえば、このエントリの例句を捜して
碧悟桐をぱらぱら読んだのですが、これは、手強いです。気持ちが、分からない。
2005/12/21(水) 05:10:33 | URL | 信治 #-[ 編集]
あと
前衛俳句は、3項だとどうしても、文意が通ってしまうとか、単純な視覚的イメジを構成してしまうとか、そういうところから、まず逃げようとしていたのだと思う。(作品に即してないので、てきとう言いですが)
2005/12/21(水) 22:29:53 | URL | 信治 #tl9rY.2.[ 編集]
コメントを投稿する

管理者にだけ表示を許可する
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。