胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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偶然について
「ただごと」のことから派生して、偶然について考えています。


   炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島  森澄雄


この「岐阜羽島」が、俳句における偶然である。
この岐阜羽島は動く。というか、俳句の地名は、全て動く。

というか、動かなくては、いけない。

一般的な、もの/ことを中味とする句の場合、そこに書かれるようなことは、たいがいどこででも起ることなので、もし、地名が動かないとすれば、それが「そこ」で起ったことを必然とする何かが、句の中に重ねて書かれていることになる。

その何かが、イメージの連鎖であれ、文学的歴史的蓄積であれ、わざわざ「動かないように」書かれたのだとしたら、それは結局つじつま合せであり、ずいぶんご苦労さんなことではないだろうか。

せっかく彼方から、「岐阜羽島」が到来しているというのにさ。

対して、それが、偶然によって「動くべく」書かれ、事後的に動かなくなったのだとしたら。あるいは、誰が見ても動くのに、作者にとっては、それが動きようもないのだとしたら。その「動かなさ」は、必然でありながら偶然であり、それは、この世界の実相にかなっているような気がする。
さて。

とすれば、すべての季語もまた、動かなくてはいけないのだろうか。たしかに、あえて動く季語を使う作り方もあると思う。


   空梅雨や向き合っているパイプ椅子  小倉喜郎
   
  
季語が動かないことを優先順位一位にしてしまうと、俳句は「言葉のはめっこ」(誰が言ってたんだっけか)に近いものになる。それよりは、動く季語のある句のほうが、よほど、このデタラメな世界にむかって開かれているのではないか。

でも、ほんとうの偶然(の季語)というものは、きっと、後期の碧梧桐的な退屈世界なのだろう。もちろん「パイプ椅子」の句が退屈だというのではなく、むしろ「岐阜羽島」と同様のパンクっぽさが好ましいのだが、この行き方の中で、なんでもありゆえの平板さに、どう抵抗しうるのか。

美術の歴史が「美」そのものではなく「美」の模型をつくることからはじまったのと同様に、まず人間は「偶然」ではなく「偶然」の模型をつくることで、満足しなければならないのかもしれない。


   明け方の蚊の飛んでゐる牡丹かな   岸本尚毅


この「明け方」が偶然である。あるいは「蚊」が、それとも「牡丹」が。純粋に審美的な書きようでありながら、バニラを効かせるようにして偶然の香りが加わり、この「牡丹」は、牡丹なのにほとんど「ただごと」である。じっさいの岸本氏がどれくらい早起きか、とかは、ともかくとして。

そして運がよければ、「美」の模型が「美」そのものになるように、「偶然」そのものが手に入る希望もあるわけで。


   古池や蛙とびこむ水の音    芭蕉
抒情性とは(改)
抒情性とは、なんだろう。

「抒情」は、辞書によると「感情をのべること」となっているが、これは、じっさいの語の使用範囲をカバーしていないと思う。

たとえば、怒りを述べることは、抒情性をもちうるだろうか。
あと「抒情的な音楽」はアリなのに「抒情的な映画」といわれると、筋なしのダメ映画が想像されるのはなぜか。

さて。

これは単なる珍説なのですが、日本人はどっかで「抒情」「情緒」を、ごっちゃにしてしまったのではないだろうか。
「江戸情緒」とか「情緒てんめん」とか言うときの「情緒」です。

音も似てるし、「抒情」の「抒」が、パッと見、字義の判らない字だというのが、きっとよくなかった。「叙情」なら、詩を「叙情」「叙事」と二分する分類用語だということで、誤解の余地がないんですが。

「情緒」は、辞書には「感情をひきおこす雰囲気」とあるので、いわゆる「抒情的」「抒情性」にぴったり当てはまる。あと、さっきあげた例でいえば、怒って雰囲気を出すことはむずかしいし、「フンイキ映画」と聞いたら、見る気がしないのも当然…。

秋桜子は「俳句に短歌的抒情を持ち込んだ」と言われますが、そこは「短歌的情緒、あるいは短歌的ムードを持ち込んだ」と言ってもらったほうが、ぼくはしっくりきます。秋桜子は、たしかに情緒てんめんだけど、想いを述べることは、多くない(特に初期は)ですから。

評論集『魅了する詩形』の中で小川軽舟さんが「抒情詩としての俳句」ということを書いていて。やはり広辞苑の「感動や情緒を述べる」「ほぼ詩と同義」という解説からスタートしていたので、ちょっと同義反復的にグルグルしていた部分があった。俳句も近代詩の一分野である以上、みんな抒情詩のはずだ、とか。

でも「抒情」=「情緒」「抒情詩としての俳句」=「情緒のある俳句」ということであれば、それは、素質がある人がすればいいという話で終ってしまう。
そして、もちろん俳句は、そういうのばっかりじゃない。
出落ち2
寝起きに「ホトトギス巻頭句集」という本をほにょほにょと、読んでいて、
さすがに立派な句が多いですなあ、と思っていたら、


  美しき布団かけたり置火燵   村上鬼城(大11・5)


あはははは。いいなあ。この人。
出落ち
物体として、言葉として、いきなりおもしろいモノってありますよね。
たとえば「擂粉木」。

  擂鉢に擂粉木ありぬ夏の宿    寺澤一雄
  擂粉木のぶらさがり冬来たりけり 奥坂まや

夏でも、冬でもいけるという。

「擂粉木のあたまを遣ふはるのくれ」「擂粉木の素の香は冬の奥武蔵」という句もありますが、かえって、あまり擂粉木に仕事をさせないほうがおもしろいようです(「はるのくれ」は中原道夫「奥武蔵」は三橋敏雄)。

つまりこれを「出落ち」という。
俳句と文学とサービス
とりあえず「文学」の定義から

じつは「文学」とかこういう巨大語の定義を考えるのが、趣味。

まず文学は、芸術の1ジャンルである。
芸術のうち、言語によるものを文学と呼ぶ。
芸術は、娯楽の1ジャンルである。
では、芸術という語は、他の娯楽からどう区別されて使用されているか。

芸術という語の使用例の「辺境」を考えてみます。(使用例の真ん中あたりを考えていても、語の領域は分らないので)

1.「大衆芸術」「応用芸術」という言い方が可能である。
ということは、芸術という語は、必ずしも、娯楽諸ジャンル間のヒエラルキーに支配された言い方ではない。

2.美男美女たるタレントの美貌は、世間一般の娯楽として供される場合にも「芸術」とは言われない。

3.娯楽以外の活動で、たとえば政治家に「芸術的な政治的手腕」というような賛辞が呈されることがある。

たとえば上の三つの文の「芸術」を「χ」に置き換えて、これらの用法が成り立つ「χ」を探す。そしてその「χ」が、通常の語の使用法と矛盾しなければ、とりあえず、定義ができたと言えるような気がします。

1.について。「大衆芸術」とは、歴史的に「娯楽」がハイカルチャーとローカルチャーに分離してしまった後の世代が、ローカルチャーにも五分の魂を期待して、そう呼ぶ言い方のような気がします。つまり、ここでいう芸術は、ローも持つべき「五分の魂」。

2.美貌を芸術と呼びうるとしたら、「自然が産んだ芸術作品」というような、擬人法的な表現になる。芸術という感じがするためには、「誰かがする」という主体性、行為性が必要なようです。前項にからめていえば、主体による志向性(ココロザシ)の問題と言っていいような気がする。

3.たとえば、政治家が、地べたをはいずりまわるような場当たり的現実対応的な手法も採りうるのに、あえてエレガントな最善手を志向し実現にいたれば、その手腕は芸術「的」と呼ばれる資格があるでしょう。また、娯楽のジャンルにおいても「地べたをはいずりまわるような場当たり的現実対応的な手法」をとる表現は、「芸術」と、呼びにくい。

ここで、一足飛びに結論を出してしまいます(趣味だから)。
自分は、芸術とは「最高のものを志向する、娯楽(の生産行為、または生産物)」であると考えます。
どうでしょう、この定義。とりあえず、悪くないような気がしているのですが。

さて。では俳句は文学か、という話。
文学=「最高のものを志向する」「言語による」「娯楽」という定義に照らせば、もちろん、俳句は文学たりえます。ただ、座の文学と呼ばれる俳句は、ずぶずぶの「その場=相対」志向を、起源にもつ。

「恥ずかしいことだけど、現代俳句は文学でありたいな、という感じがあります」という摂津幸彦の含羞は、そこを背景にでてくるんじゃないか。それを大っぴらに言うなら俳句である必要がない、でも忘れてしまったら、ろくなものにならない。

かっこよく言ってしまえば、垂直性をもって放たれると同時に、水平に手渡されるものが、俳句です。

渡す相手がよくなくっちゃあ、話にならないというわけで。俳句において、ことさらに歴史性への接続(師弟関係重視、季語重視etc)が意識されるのは、座に至高性への契機をもたせるためではないかという気がします。
また一方で、俳句は、その「相対」志向によって、同時代の芸術レースからは下りてしまっている。俳句は文学ではない、と石田波郷のような人が言ったのは、おそらく「野暮の相手をしていられるか」という啖呵で、これは、現代にも通用する話。ただ、その「相対」志向が、低回趣味、秘教化、退廃、というコースをたどりがちなことも、また。

自分が、俳句には、よりどころとしての「サービス精神」があると思うゆえんです。最高のものをこっそりと志向しつつ、どこまでも、その場にいる人に向けて供される。文学と座興の間を揺れ動く、俳句の矛盾をそしらぬ顔で止揚することが、金子兜太のいう「ふたりごころ/ひとりごころ」というものか、と。

なんか、ひじょうに当り前のことをベタに書いてしまいましたが。

参照:天気さんブログ「俳句と『文学』(1)(2)
たじまさんブログ「俳句という師~相対性俳句論(断片)」
谷雄介「俳句抄」「からくれなゐ」を読む
谷雄介、落選展作品より「俳句抄」「からくれなゐ」

以前の作者の、にぎやかなスタイルの特徴は、語に対するフェティシズムにあったと思う。共感を呼びにくい、殺風景ないくつかの用語が、くりかえし使われる。好きなんだろう、それらの語が。曰く「国家」。曰く「雪崩」。曰く「鉄」。曰く「映画」。(あと多少湿っぽいところでは「海鼠」とか「母」とか「村」とか)。

しかし作者自身、それらの用語に託するものがあるのかというと、多分、あまりない。そのへんがかつての前衛派と違うナチュラル・ボーン・ポストモダニストなところだ(ありましたでしょ、前衛俳句的用語フェティシズム)。ただ、それらの語を繰り出してくる作者は、とても嬉しげだ。キーワードにウェイトがかかる作り方をしているので、そう見えるのだろう。その嬉しさには感情移入できる。

  初夢に中途半端な鉄ばかり    「正気の街」
  なすびよく油を吸うて課長の死  
  夕凪や映画の女つひに死す    「からくれなゐ」
  蠅叩きもはや属国かもしれぬ

ただ今年の「俳句抄」50句を読んで、作者は、もう違うところへ進み始めていると感じた。

  流氷の寄せてくるなり屏風裏  「俳句抄」(以下同)
  鳥雲に天井我を慈しむ
  春分の寝屋に柱の音すなり

冒頭の3句。キーワードをぶっつけるような作り方は、「正気の街」の延長だが、そのキーワードと見える語は「流氷」「屏風」「鳥雲」「天井」「春分」「寝屋」、つまり季語と日本家屋。もちろん、ここでは50句中のイントロとして建物つながりが意識されているわけだが、50句全体としても、季語の地位が向上し、それを迎え撃つ単語に、俳句として収まりやすい語(「食む」「暮らし」「こゑ」「返り見」etc)が選択されている。

季語と、俳句らしい用語とが、いろいろ位置関係を変えつつ照応し、イメージを形成している。これらの句は、「課長」や「映画」が「なすび」や「夕凪」を蹂躙しないがしろにする句群とは、だいぶ様子が違う。

  花烏賊や一湾といふ暮らしあり
  春空を鉄路は濡れてゐたりけり
  金屏風倒れ北方の春のごとし
  
俳句らしい用語と、俳句らしい巧みな言い方で、構成されたこれらの作品は、しかし、俳句らしさの陥りがちな予定調和からは、よく逃げおおせていると思う。それはイメージ自体の質によることはもちろんだが、それに加え、二つの彼らしい要素の働きも見逃せない。

一つは、過剰さ。「ゐたりけり」「倒れ北方の春のごとし」といった表現は、ひじょうに大げさであり、かえって、なにか大事なものを信じてないこの人は、という印象を与える。
もう一つは、ナンセンスなユーモア。「猿山に猿の尿意や明易し」とか「一本の柱を崇め夏休み」とか。これは、もう、そうせずにいられないのだと考えたほうが理解しやすいが、つねに片足を「非-本気」に置いていることを、メッセージしている。

以前の彼は、アンチ「俳句」的な語彙をことさらに導入することで、俳句らしさを異化しつつ俳句を書くという、その緊張を元手に書いていた。さいきんの彼は、あえて俳句らしい語彙と言い回しを使いながら、なお同等の「異化」を達成しようと実験をくりかえしている、と見える。

なぜそんな手間をかけるかといえば、それは、彼の含羞がそうさせるのだろう。(「含羞」は、天気さんが以前「屈託」と呼んだそれと同じものかもしれない)(この含羞は、ほんとうに彼の持ち物だという気がするのと同時に)(俳句らしさに対する含羞は、我々が、かなり広く共有する同時代性ではないかとも思う)。

彼が俳句の異化にしばしば失敗するのは、らしい言い方と、らしい用語で、本当にいいのが書けてしまう場合だ。

含羞がぶっとんでしまったような、いい句が、いくつか。

  春菊や日暮の父が摘んできし
  地震過ぎてこの輝きの夏の川
  吾のごとく君寝ねたまふ障子かな

たいへん俳句らしい、いい句がいくつか。

  壷焼に垂らす醤油の赤さかな
  噴水の向かうに近江ありにけり
  東の茫洋として鶏頭花

でも、僕がもっとも心動かされたのは、この句です。

  秋の川中部地方を流れけり

参考:天気さんブログ「谷ユースケ『正気の街』について」
佐藤文香「霧吹」「圧す力」を読む
佐藤文香の、芝不器男賞100句中、評者がこぞってとりあげた「青に触れ紫に触れ日記買ふ」を、自分はあまり買わない。このことだけでも、ぼくの目が曲がっていることは保証されているので、あまり当てにせずに聞いてほしいのだが、掲句は非常にふつうのことを、きれいな言い方で言っているだけのように見える。
言葉はすてきなんだけど、ワンダーが足りないというか。

もちろん「青に触れ」は対馬康子も櫂未知子も小澤實もほめてるんだから、方向はそっちでも間違っていないのだろう。でも、それだけが佐藤文香ではないことを、自分は知っている。

じゃ、お前の言うワンダーのある句ってどういうのよ、と言われれば、例えば「霧吹」50句中の、こういう句。

  霧吹の口淋しくて春の宵
  つちふるや造船所より犬出で来
  包まれて軽き春画よ年の内
  夕暮の長き若布を洗ひけり
  あけぼのの宝石類や花の雨
  越谷に火事つつましく終りけり
  晩春の焼く火と煮る火となり合ふ

「霧吹」の句。「口」が「淋し」を呼び、「淋し」が「春の宵」を呼んで、ほわーっとひとつの景色になりつつ、残るのは、霧吹の口を見ているばかばかしさ≒淋しさ。
「つちふるや」。「犬」を出したら「造船所」のがらんとした非人情な感じが、書けちゃったという、この偶然ぶりがワンダーである。
「包まれて」は、「春画」の軽さもすてきだが、「年の内」という納めかたが、頭おかしくてよい。心急かるるなか、春画を出したり包んだりしている、年末の空白気分。
「あけぼのの」は三要素を等分に並べる書きぶりで、春の雨に「あけぼの」が染みとおるようだ(『類や』て、君…という、つっこみを待たれている気もする)。

ようするに自分は、言葉が運動して、どこかあらぬところへ着地することを期待しているのだろう。

そう、着地。佐藤文香の句には、句が、句の中で着地点を探しているふうがある。この作者は、一句をあるところから書き始めたとして、言い終わりと考え終りが同時、という書き方をしているのではないか。
その着地点は、句によって、一語の措辞であったり(「水音のゆたかなる絵を片陰に」の「絵」、「蜜豆の緻密な黒を掬ひけり」の「緻密」)、季語であったり(「煮魚の目玉こぼるる四日かな」の「四日」)とうとつなイメージの展開であったり(「初夢に見る上代の魚市場」の「魚市場」)と、多様である。
「青に触れ」の句は、「日記買ふ」という行為にともなう一般的感情に着地しているのが、ぼくには物足りなかったのだろう。

ところで、うってかわって「圧す力」50句。

  学生は釦を拾ふ春の宵
  みつちりと合挽肉や春の海
  白玉へ匙で与へる圧す力
  水中り鉄の多くは長きまま
  後ろから来て藤棚を見上げたり
  新しき簾の芯を思ひけり
  銀行に海の来てゐる晩夏光
  我が歌にまづあなたとて鬼灯よ
  歯科の夜のいつも何かに水溢れ
  半夏生蟹蒲鉾の赤々と

力まかせ、ワンダーまかせの句が多く、ふつうの句が少ない。
「合挽肉」が「春の海」へ着地するとは、だれも思わない。「白玉」を圧して、それでそれが全部だとは、だれも思わない。
「我が歌に」。統辞がばらばらになりつつ、リズムも崩壊しつつ、なにか女の情念のパロディのような、暗黒日本舞踊というものが、もしあるのならそのような。

こんな暴れ気味のステップをふみながら、デタラメにならず、きっちりなんらかのイメージや感触を造形しえている。それは作者の無意識の貯金の多さというか、詩性の強さというようなものだろう。

ずいぶん個人的な嗜好で、間違った方向への展開を希望してしまっているかもしれないが、佐藤文香には、あらぬところへ行かずとも、たいへんケッコーな句がある。

  鉄棒の下のくぼみや明易し      「霧吹」
  密漁のごとくに濡れて冬の薔薇
  春の波人の近くに終るなり
  うづくまれば小さくなるなり花野原  「圧す力」
  明るさの重なる岸や蔦紅葉
  焼菓子と夕焼置かれある卓よ

ケッコーを極めて、ワンダーに至る句群だと思う。

  
  
「魚座」の俳句(3)
(承前)
に、「谷を渡る糸」に俳句を喩えたが、そのばあい、糸が地べたに落ちることは何かと言えば、それはことばが俳句になりそこねるということだろう。(*1) もう一つ言えば、越えられることが分っている谷をいくつ越えても、それはお楽しみとはいえない。詩のことばは、自分で作った谷を、自分で越えるのだ。

さて。
ごくごく淡い内容を、余計なことを言わず調子を上げも下げもせず、十七音を使い切って言い終わる。その平易にみえて際どい「谷」の道行きを、たどり直すことが、杏太郎の句を読む楽しみだ。作者が「俳句は呟き」と言うのなら、それは「つぶやき直す」ことでもあろう。(*2)

あらかじめ、たいしたことを言おうというのではなく、ちょっとのことを、うまく言い終わればおなぐさみ(曲芸)である。すると、そこから遡行して、何か「内容」(*3)めいたものが生じる、という方法。

ところで、ある人にとって「ただごと」が叱り言葉でありうるのは、世界は「ただごと」に満ちており、そこから「ただでないこと」を、拾い出すのが「詩」である、という考えが前提となっている。

杏太郎は主宰誌「魚座」に、猿が木から落ちることを、人は異常なこととして考えるが「『魚座』では、猿がするすると木に登ることの不思議さを、じっくりと考えて欲しい」と書いた。

しかし「猿が木に登る」と書くことは、その「不思議」を書くこととイコールではないはずだ。

もし「猿が木に登る」と書いて、書いたものが俳句になっていれば、それは「不思議」が書けたことになるのだろうか。

……。

案外、そうなのかもしれない。

「魚座」は少人数の結社ながら、会員が、総合誌の新人賞などで存在感をしめした。
(メモをもとに書いているので不確かなのだが)杏太郎は「魚座」誌上で、俳句をつくる以上、俳句の形をしているものが書けるようになったほうが楽しいはずだ、そのための指導は惜しまない、という意味のことを発言していた。たしかに「魚座」は、指導において成功した結社だったと、言えるだろう。


   秋風に吹かれて箱を組み立てる  鴇田智哉
   鉄棒をくぐれば虫の夜となりし  村田 篠
   栗飯のときもごはんを少なめに  仁平 勝
   秋の来てバラの名前の美容室   加藤あい沙
   虫籠の傾いてゐる朝かな     茅根知子
   新聞を畳む音ある秋の夜     鳥居三朗
 

今年の「魚座」11月号から、引いた。(*4) すでに注目されている作者ばかりだが、共有されているのは、独特の滑らかさだ。(*5) そしてもうひとつ(句ごとに立ち上がってくるものとはいえ、やはりそれぞれよく似た)かすかな「不思議」を共有している。

これらの句が、ことさらに不思議なことを言おうとしているのでは、もちろんない。

言っているのは、当り前の、ただそれだけのことなのだが、「それ」が俳句に「なっている」不思議が、「それ」じたいの不思議さを形象化しているのだ。(*6)
「変哲もないこと」を句にすることは、やはり少し変なことなので、その「変」さが「変哲もないこと」に色移りしている、とも言えるだろう。

個々の作家に対する敬意をすこしも割り引かずに言うのだが、今井杏太郎のメソッドは、とても有効で強力だったのだと思う。(*7)



   波が来ていそぎんちやくのひらくなり  今井杏太郎


(この項おわり)


(*1)前記事で、作品の「ひねった」部分や定型との関係などが「谷」を形成する、と書いたのは間違いだった。たとえにこだわるなら、それらは糸に吹く「風」とでも言うべきか。それをたよりに言葉は「谷」を渡るのだが、吹きすぎてもうまくない。

(*2)結果、杏太郎の俳句は、口がきもちいい。かつて松本人志が、「みはいるしゅーまっはー」と言うとき口がきもちいい、と言ったのと、同じ意味で(違うかもしれない)。

(*3)このシリーズでは「内容」という言葉を、「記述」とその「作用」に先行するもの、くらいの意味で使っています。記述の「対象」と、内面的なもの、つまり「目的」とか「心」とか「美意識」をあわせて。なんか、作者が、ないふりをして、たっぷり持っていそうなものも、含まれている。

(*4)最新号や、句集の開けたページから引用するのは、例句探しの手を抜いているわけではなく、あるていどランダムに引いても、傾向が現れていると言いたい。

(*5)「て」や「ば」を忌避しない、句中の明確な切れをむしろ避ける、語彙の傾向として突出しがちな語を避ける、などが「魚座」の文体といえる。

(*6)ことばの「すがた」が、ことばの内容を形象化することを、以前のエントリでも書いた。(こちらこちら

(*7)ナックルボールで大リーグ通算318勝をあげたフィル・ニークロ投手は、弟もナックルボーラーで200勝投手。そもそも、二人とも、ナックルボーラーだったお父さんに、ナックルボールを教わった…ということを連想。
「魚座」の俳句(2)
承前
今井杏太郎の方法の、パッと見てとれる特徴は、内容を最小限にすることだ。

俳句の少ない音数を満たすにも足らないほどの内容が、持続感を保ちつつ、十七音に引き延ばされて、そこに糸を張ったようなテンションが生まれる。
その十七音は、言い過ぎないことで佶屈さとは無縁であり、むしろ日常言語に近い滑らかさに執着する。そこに、また、定型との軽い緊張関係が生まれている。

さらに、その滑らかな語のつながりに、ほんの少量のへんなところがある。
たとえば、(1)であげた、もう一つの句、

   珈琲を吹いて飲むとき日の盛り 杏太郎

この句のばあいは、「とき」の二文字が、聞かせどころだ。内容は「日の盛り」に「珈琲を吹いて飲む」というだけである。そこを「飲むとき」と言うことで、この句は、事象とその時間的背景の提示という書割り的構図から、身をよじるようにして逃れている。

   谷底にかたまつてゐる桜かな  杏太郎

今月号の「魚座」で作者が紹介している旧作だが、この句も棒球のように見せて、「ゐる」のあたりが、かすかにおかしい。それらは、作者によって句が「ひねられた」痕跡であり、そのかすかな抵抗感は(定型との緊張関係とともに)言葉が読まれつつ越えてゆく「谷」を形成している。

(この項つづく)
「魚座」の俳句(1)
俳句というものは、谷の上をひょろひょろと伸びていく糸のようだと、感じることがある。糸がうまく谷を渡りきれば拍手喝采。だが、その「谷」じたいが、「糸」の渡りと、同時に生成するものなのでややこしい。

つまり、言葉の線的な性質。言葉とは、耳に入ってくる音の順番・語の順番のことだから、意味をなしながら伸びてゆく、継時的な(それを空間的に例えれば)線的性質を持つ。

今井杏太郎の句を読むと、いつも、そこから、言葉の線的性質に対する意識を感じる。たとえば句集「海鳴り星」を適当に開けてみる。82pと83pの見開きには、こんな句がある。

  のうぜんの花は遠くに見ゆるなり   今井杏太郎
  珈琲を吹いて飲むとき日の盛り    〃

意味やイメージを取りだして言うことが、ことさらにむなしくなる句だ。内容を最小限にして、言葉をたらりたらりと耳に流し込んでいくその過程に、この作者は賭けている。

「のうぜん」の句。上五中七の谷間(*1)を越えてくる流れを、「花」で受けているところが、ナイスキャッチである。句またがりのようなそうでないような、意味的にはあってもなくてもいい「花」で受けて、糸は難なくつながって、
「は」で、話者を意識させ、
「遠くに」「見ゆる」「なり」と、ゆらゆら、ゆらいで終る。(*2)

思わず、そうですか、と言いそうになるが、杏太郎自身、俳句は「そうですか」で十分、と書いているので、それでいいのである。
(この項つづく)

*1 以前、「すーっと入る」という記事を書いてから、上五と中七のあいだに生じる呼吸の間を、言葉がどう越えていくかが気になっている。藤田湘子のいわゆる「上五で切る」俳句の基本形には、意味上の切れと呼吸の切れを一本化して、コトを単純化する、つまりは形を安定させる、という意味があるのではないか。

*2 「見ゆるなり」=(という、まあ、アタシの見えかたの、はなし)。花が遠いと言いながら、話者自身が、遠くに行ってしまったようだ。
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