胃のかたち
上田信治による俳句研究。
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コラージュについて
ひとつ前の記事のコラージュは、「ダダ」で「バウハウス」だった、クルト・シュヴィッタースという人の作品で、1983年に池袋の西武美術館で(あったんですよ、むかし、そういうのが)やった、展覧会で見て、わー、となったもの。

そのころは、俳句にまったく興味がなかったのだが、この商業美術的フルーツのイラストの、喚起性の強さ(美味しそうさ)ったら、なんだろう。
写真や、リアルな静物画とは、別次元の力が、この林檎にはあるように思う。
(20年以上おぼえてるんだから、これくらい言わせて欲しい)

ひとつは、林檎が、言葉のように記号たり得ていること。
もうひとつは、このコラージュ全体の、平面構成が、完璧と言いたくなるほど、美しいこと。

これ、ふたつとも、林檎の情報量を増やして、直接、食欲を刺激するような要素ではない………、というところが、なんとも「俳句的」。

俳句もコラージュも、圧倒的に「貧しい」方法なわけで。

その貧しさの中で、季語、たとえば「林檎」を「林檎」とだけ言って、極限までイメージが広がるように使う。それは、読み手のもつ文脈を利用しつつ、その語を、構成のなかに「どう置くか」だけなんじゃあないか。

というのが、シュヴィッタースのコラージュ「5 ORE」が、俳句を思わせるところ。
俳句に似たもの
Kurt Schwitters 『5 ORE』(1936)
430_3.jpg

この、林檎と葉っぱが「季語」。
「週刊俳句」準備号
こんなん、はじまりました。

週刊俳句 Weekly Haiku

http://weekly-haiku.blogspot.com/

毎週、日曜日更新です。
まずは創刊準備号。上田は「『俳句』4月号を読む」(先月発売)を書いています。
ただごと、この人の見解
『俳句』平成17年11月号の特集「平明こそ俳句の極意」加藤かな文「青空の光学」より

そこに描かれた「ただ事」に心動かされ、そこに用いられた「ただ言」をまぶしく感じるのはなぜだろう。「ただ事」と「ただ言」が絶妙のバランスで結びつくとき、俳句本来の性能が最も発揮される。とりあえず私たちの経験をそんな法則らしきものにまとめることはできると思う。しかしさらに、私たちの感動のより精緻なメカニズムをと求められたら、それが青空に似ているから、とでも答えておくのが最も誠実な態度ではないか。

ここでは、

・何でもないことを、ぴったりと言いあらわすことで、あらわになる言葉のはたらき。
・さらに、あらわになる、何でもないことの、何でもなさ。
・見えすぎなかんじ。

というようなことが、言われているようです。

   学校の丸ごと映る植田かな 加藤かな文
ただごとだ
北原白秋「かんぴょう」

1 かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる 
  あのそらこのそらかんぴょうはしろいよ  
  かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる 
  あのひもこのひも かんぴょうは ながいよ 

2 かんぴょう かんぴょう かんぴょう ほしてる 
  サラサラサラサラかんぴょうはゆれるよ  
  かんぴょう かんぴょう かんぴょうほしてる 
  だれだかだれだか かんぴょうを くぐるよーーーー

譜面


そして、試聴
「し」について
前も、ちょっと書きましたが、俳句における文語文法について。

佐佐木信綱は、『和歌入門』(明45)で、(ネットからの孫引きで恐縮ですが)

和歌は文学であるから、原則として文法を正しく守らねばならぬ。
と書くと同時に、

決して文法に拘泥してはいけない。
とも書いています。

今の文法の法則は、多くは平安朝時代の文章に存した掟である。文章が変遷すると共に、文法も変遷する。和歌は元より口語では無いから、大体に於いては古文の法則に倣ふべきであるが、併し時によれば、随分古文の法則を破つてもよい自由を有していることを忘れてはならぬ。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/intro/yomikata.html

さて。
現代俳句の文語文法「誤用」について、もっとも話題にのぼったのが、例の「し」の問題です。

「澤」2006/6月号 小澤實・西嶋あさ子対談より
(久保田万太郎の〈冬の灯のいきなりつきしあかるさよ〉に触れて)
實  最近「つきし」の「し」、これを文法の誤用だと説く方がいます。ただ、この「し」は芭蕉発句にもこのように用いられています。ちょっと前のできごとに過去の助動詞「き」の連体形「し」を使うことで、瞬間的なできごとを永遠のものにしようとしているのではないか、とも思います。

※芭蕉の「し」
  衰や歯に喰あてし海苔の砂
  夏の夜や崩れて明けし冷し物
  風色やしどろに植ゑし庭の秋

うちの辞書(旺文社『全訳・古語辞典』)を引いてみると、助動詞「き」の用法の二番目に、「平安末期以降の用法」として「完了・存続」「動作が完了して、その結果が持続している意を表す」とあります。箱のデザインが気に入って買った辞書なので、どこまでたよっていいものか分りませんが、そういえば、この用法については、片山由美子『俳句を読むということ』でも、言及されていました。

文法厳密派は、動作の結果が眼前に今あるものについては「回想」の「き」ではなく「完了」の助動詞「たり」を使うべき、と言います(片山さんは「筆者一人で判断を下すわけにはいかない」「実作者一人一人が真剣に考えてほしい」と言って、いちおう保留の立場)。

しかし、万太郎の句の「冬の灯」や「あかるさ」が、「つく」という動作の結果であると、どうして言えるのでしょうか。「冬の灯」が目の前にあろうが、なかろうが、「つく」を過去のこととして回想的に語ることは、作者の主観の自由です。万太郎の句は、まさに「いきなり」ついて、今、眼前には「あかるさ」しかないという内容。「つく」は、過去のある時点にあって、今はもうありません。それを「つきし」と言えば、通常の平安人の語感からは外れてしまうのかもしれませんが、かといって、そこに完了の意を加えることは、その「つく」を現在までひっぱってしまって、うまくない。

前掲の対談中の「『し』を使うことで、瞬間のできごとを永遠にする」とは、まだ、その場になまなましい、それこそ眼に残像が残っているくらいの事象を、ある過去の時点に「ピン留め」するように語る、ということなのではないか。

この「し」は、誤用とはいえないと思います。

  大空に又わき出でし小鳥かな   高浜虚子
  目貼してカーテン引きし書斉かな  〃

「わき出でし」は「いきなりつきし」と同じ感じで大賛成ですが、「カーテン引きし」は、どうなんだろう。この大先生の、適当さが眼にあまるというか、それをまた、みんなゆるーく踏襲するんで、反動として、もうちょっと文法しっかりせねば(古人に恥ずかしい)、と考える人がでてきたんでしょうね。




追記*「助動詞『キ』=目睹回想」というのは、1950年代に英文法学者・細江逸記が言いだして、通説になったものらしいです。ネットで見つけたこちらの論文(「古典語過去助動詞の研究史概観」井島正博/2001)の数頁をざっと読んだだけのにわか勉強ですが、その説には、疑問の余地がないわけではなく、ましてや、絶対的な法則というわけでは全然なさそうです(論文の筆者は、三省堂の古語辞典の編集委員の一人で、そういう人の「研究史概説」は、おおむねニュートラルな内容であろうと思われる)。
だいたい、文法学者の説に合わせて、言語運用の実態のほうを変えなきゃいけない、なんて言う人がいたら、それだけで眉に唾つけて聞かなければならないところ。俳人はみんな、人が良すぎます。
偶然について(つづき)
前の記事のつづきです。

俳句が、句中に因果関係があることや見え見えのイメージ操作を嫌うことと、語の「動かなさ」を志向することは、相反した欲求だと思う。しかし、そこをひょいと乗り越えるのでなければ、お楽しみは多くない。

櫂未知子『食の一句』より。

  遠雷や皿に寄り眼の目玉焼 さくたやすい

遠い雷鳴、食卓には〈目玉焼〉。ちょっと〈寄り眼〉にできちゃったと微苦笑している作者ーー要約すればただそれだけ。しかし、これこそ「俳句的」。(略)過剰な感情移入を望まず、その日に得た季語と眼前にあるものとを一句にする、この俳句ならではの面白さをわかって貰えるだろうか。


この「その日に得た季語」っていう言い方が、前項を書いているとき、念頭にありました。
まさに「偶然」。まるで、季語が、タロットかおみくじのようじゃないですか。

でも、おみくじって、けっこう当るんですよね。
界わいの話題から
田島さんちの、連続更新が、たいへん面白い。

田島さんの用語の「不可能性」については、いくつかのレベルがあると思うのですが、

1.言葉と対象(あるいは内容)の関係についての「不可能性」

「なぜ、俳句に「絶対的にわからない」ものが内在してしまうか、というと、「言葉」というものが、常に「言い過ぎてしまう」からなのである。」(2007/3/7)

「「不可能性」に対して「価値」がある、と合意したものだけが、一方で、その作者として表出し、もう一方で読者として表出する。」(2007/3/9)

田島さんの言語に対する不満(?)が、「言い足りない」のではなく、「言い過ぎてしまう」ことにあるというのが、おもしろいです。それは、たしかに日常言語には起っていない事態かも。(指示対象と言語の不一致は、当り前かつ解決不可能なので、問題になりようがない)

一方で、田島さんは、日常のことばが、意味の限定という機能をもつゆえに、多くの俳句は無意識に意味を価値としてしまう、というようなことを書かれていて。

ひょっとして、言い過ぎるとは、意味を限定することと重なってくるんでしょうか。
意味を限定することが、問題なのだとしたら、限定される前のものとは何だろう、と。

言葉からこぼれ落ちて、はじめて、そんなものがあったと気づくような、言葉の「外」の経験のようなものが、想定されているのかもしれません。

2.価値としての「不可能性」

「「俳句」の価値は、その「ことば」の意味ではなく、俳句そのものが内在する「不可能性」にある、ということなのです。」(2007/3/29)

「俳句における「絶対的にわからないもの」は、「価値」があるのか、ないのかすら定かでなく、けれども「価値がある」ということを「絶対的に受け入れた者」だけが、それに接近することができるような「何か」である。」(2007/3/7)

ここでは、あえて、秘教的な条件付けがなされているのだろうと思いますが、ふつうに分ろうとすると、「意味ではなく」ということが、ヒントになりそうです。
ことばには「意味ではない何か」というものが、あるはずなんだという。

ここには読者と作者の「合意」が、不可能を可能にする、つまり意味ではない何かを可能にするから、俳句は価値を持ちうるんだという主張があると思うんだけど。

田島さんは、一方で、それを「可能」なことにしてしまうことには、あまり意味がないのだ的なことを書かれている(なぜなら「再現可能」な「不可能性」は、もはや「不可能性」ではないからである。)。

となると、これは、毎回、未生の価値に賭ける、という心構え論なのかとも思われ。

田島さんの一連の論考から、かってに、自分に引きつけてテーマを取りだすと、

・「言い過ぎない」貧しい言葉の可能性。
・「書いていない」ことが書いてある、という同意。

というあたりが、気になります。田島さんの考えと、ぜんぜんかすってない可能性もありますが。

(ここで、俳句の不可能性の価値が、顕現している作例がほしい気がするんですが、そういうのって、ちょっと違うんでしょうか)






あ! ちょっと分ったかも。

田島さんには、日常言語の限界を超えたいというテーマが先にあって、その限界の先にあるものを、ぜんぶ「不可能性」と呼んでいるのでは、ないでしょうか。

いや、日常言語の限界というより「ことば」一般の限界といったほうが、いいのかな。詩語と日常語って、区別つかないですもんね。(タダゴティストとしては、俳句と日常の言語活動の区別はつくけど、そこで使われているのは同じ言葉だという気がしている)

3/29日付の記事のラスト近く「「この句には、意味という価値はないんだよ」という「意味の意味」をメッセージとして付加する、いわゆるメタメッセージ付きの句」が現われた、というあたり。

「お、こっちの守備範囲に話が来るのかな」と、たいへん楽しみにしています。
刮目して待て。
界わいの話題から
天気さんの、こちらの記事。因数分解のように、句の中味を、はらはら解いて消していって、「何も残らず、ぜんぶ消えてなくなった、この状態、作者である私にとっては、それこそが本懐だったりする」

うん、それは、ほんとに本懐ですねえ。

たしか、以前、虚子のただごと系の俳句についてだったか、
「こんなことを句にしちゃってるオレ、というアピールはついて回る」
というようなことを言うか書くか、していた人がいて。

その、(わざとなんでしょうけど)いじわるな物言いを、ただごとは越えうるのか、と考えてました。それは、もう「ああ、そのオレが消え損なってたら、書き損ないです、失礼しましたね」と、受け流せばいいような気がしてきました。

あらら
豆の木11号
上田原稿「ただごとについて」、あららやっちゃってます。子規の句「柿食えば」じゃなくて、
「柿くへば」ですよね。汗顔の至り。

豆の木11号より
  高層という滝の只中にいる  月野ぽぽな
  コスモスは咲いてゐないと兵士のやう 中村安伸
  おじさんの空気を抜いて桜餅 三宅やよい
  腕のばし花の写真を撮りにけり 遠藤治

俳句研究4月号
  いくつもの舟がこはれて春をはる 今井杏太郎
  人を待つ冬の夕日の駐車場    大井雅人

高柳克弘「凛然たる群像」で、田中裕明の「渚にて金沢のこと菊のこと」が取り上げられています。
「渚」に秋の季節感と空間の拡がりを、「金沢」「菊」から、色彩と伝統的美的価値をひきだして、さらに「いまここ」をあえて避け、いろいろ思い出しちゃったりするのが渚よねえ、という読み筋で(高柳さんはそういう書き方はしてないですが)たっぷり。

自分は、田中裕明は、俳句の型にフェティッシュな愛着のあった人なんじゃないかという気がしていて。掲句には、素十の「たんぽぽのサラダの話野の話」が響いているのではないか、と思いました。

あと「渚にて」と言えば、N・シュートの、最終戦争後の世界の静かな終末を書いたSFなんですけど、田中さん、読んでたかな。



 
追記:小説「渚にて」のタイトルは、T・S・エリオットの詩(「かくて世の終り来たりぬ」というリフレインのある)から、とっているらしいです。でも、そっちは流通してる訳だと「渚に集う」なんですよね。
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